皇子の母
最初に、その声に反応したのは――瀬戸澄佳と、京崎ルリカだった。
音ではない。耳ではなく、もっと深いところに触れてくる感覚。空気が、わずかに震いだす。
『――よくぞ、戻したな』
思わず、息を止める。ルリカも、驚いて顔を上げた。私と視線が合う。聞こえている。間違いない。
一方で、榊原が戸惑ったように辺りを見回す。
「……ん、何かいったか?」
「え、なに? なにが?」
室田も同じ反応だった。だが――相原だけが、静かに一歩前に出る。
「……黙って」
低い声だった。二人が言葉を止める。私は確信した。
……相原さんにも、聞こえている。
声は、続いた。
『わが皇子を、よくぞ戻してくれた』
その言葉で、何かが繋がる。
……この山の開祖、蜂子皇子のことを言っている。そして――その母。
言葉は続く。
『皇子は今、死と再生の境にある』
空気が、重くなる。
『この旅を邪魔せぬように、そして、無事に帰ってくるためには――力添えが要る』
「……どうすれば?」
口にしたのは、ルリカだった。声はまだ震えているが、逃げてはいない。
少し間があって、神の声が応えた。
『かつて、この国の偉大な王となる大穴牟遅が、同じ道をたどったことがある』
胸の奥で、何かが、かちりと噛み合った。
『そのときも――二人の巫女が、その旅路を支えた』
それで、十分だった。――二人の女神によって、大穴牟遅が黄泉返る神話は知っていた。だから、それ以上の説明はいらなかった。
『ふふ……さすがよの』
その声に、わずかな笑みが混じる。
そして――消えた。場には余韻だけが残る。
私は、しばらく動けなかった。なぜか、聞き覚えがある声なような気がした。けれど、それが誰のものかは、思い出せない。
「……わかったの?」
ルリカが、私を見上げる。
「はい」
私は、はっきりと答えた。
「私たちで、彼が戻ってくる手助けをします」
「……うん」
その一言に、迷いはなかった。
私は、かつての感覚を思い出していた。磐梯山。硬質化した彼を、祓ったときのことを。
触れた瞬間に伝わってきた重さ。穢れの量ではない。背負ってきた時間の重さ。祝詞を重ねても、簡単にはほどけなかった。山の神の力を借りて、ようやく――だった。
「多分……かなり、大変なことになると思います」
正直な言葉だった。
「覚悟はできてる」
ルリカの目に、嘘はない。
「……私たちも、手伝うわ」
相原が、静かに言った。
榊原と室田は、まだ状況を完全には理解していない。それでも、二人とも何も言わずに頷いた。
「どれだけ時間がかかるか、わかりません」
私は、はっきりと指示を出す。
「食料と、それから秡川の水を。甕いっぱいに、とにかくたくさん用意してください」
「了解!」
「任せろ!」
榊原と室田が、同時に駆け出す。
「私たちは、ここに結界を張ります」
視線を巡らせる。
「相原さん、山本さん。絶対に、誰も中に入れないでください」
「……わかりました」
相原と山本が、強く頷く。
「ルリカさん」
私は、彼女を見る。
「結界、いけますか。船に張ったのと、同じで構いません」
「もちろん」
短く、力強い返事。
そして私も、結界を張る。
二重。いや、この山のものを含めれば、さらに重なるだろう。
――今度は、絶対に途切れさせない。
結界の中心で、黒い繭のように横たわる彼を見つめる。
……必ず、戻す。
それが、巫女としての責任であり――私が、ここにいる理由なのだから。




