謝罪と感謝
水に吐き出されるみたいに、自らの体を再び宙に浮かせ、そしてそれが地に着くと、衝撃が体を走った。
――落ち着いて呼吸ができることが、こんなにもありがたいことなのか。
京崎ルリカは、そんな実感をかみしめていた。
……明るい。
最初にそれを感じた。目を開けているのかどうかも分からない。ただ、暗闇ではない。水の中にいるような重さと、空気に晒されているような軽さが、同時にあった。
音がする。
ざあ、と、雨のような音。違う。雨じゃない。もっと近くて、もっと重い。
水が――上に、流れている。
ぼんやりした視界の向こうで、水柱が立ち上がっているのが見えた。水が、逆流するみたいに空へ引き上げられ、そのまま砕けて降り注いでいる。
白い霧。冷たい飛沫。でも、不思議と怖くはなかった。
次第に、水柱が細くなっていく。
そして――残ったのは、虹だった。はっきりとした七色。山の朝の光を受けて、池の上に弧を描いている。
「……龍神様か……」
誰かが、呟いた。
「そうとしか、考えられないな」
別の声。修験者だ。その声を聞いたところで、ようやく、自分が倒れているのだと気づいた。
視界に、影が差す。
「大丈夫ですか?」
澄んだ声。瀬戸だ、と分かるまでに少し時間がかかった。
「……もう限界」
正直に言った。強がる気力も残っていない。
そこで、ようやく思い出す。
「……マンゾクは?」
声が、思ったより小さかった。
瀬戸は、はっきりと答えた。
「一緒ですよ。彼も、戻ってきました」
それを聞いた瞬間、胸の奥が、すとんと落ち着いた。
「……そう」
息が、抜ける。
「さすがに……少しだけ、休ませて」
「はい」
その返事を聞いたところで、私の意識は途切れた。
――次に目を開けたとき、天井があった。
木の梁。清潔な布の匂い。宿坊だ、と分かる。
体を動かそうとして、やめた。動かせないわけじゃない。ただ、動かす理由が見つからなかった。
「……起きました?」
横から声がする。山本だった。心配そうな顔で、こちらを覗き込んでいる。
「ルリカさん……心配させないでください」
「ごめんね」
そう言うと、山本は黙って首を振った。目元が、少し赤い。
「……ミスったのが、この世界でよかった」
思ったままを口にする。
「現実だったら、もっと大変なことになってた」
「前向きですね、いつも」
山本が、困ったように言う。
少し沈黙。
それから、聞いた。
「……あいつは?」
喉が、少し乾く。
「満足くん、どうしてる?」
その瞬間、山本の表情が変わった。
視線を逸らし、言葉を選ぶように、ゆっくり口を開く。
「実は……少々、面倒なことになってまして……」
**
「――あれは穢れの塊だ! 本山に置いておくわけにはいかん!」
「そうだ、追い出すべきだ!」
声が重なり、空気が荒れる。修験者と僧兵たち。その中心に、瀬戸が立っている。周囲を、榊原、相原、室田が盾になるように固めていた。
「薄情者だな」
榊原が吐き捨てる。
「仏教の教えに背いているのは、どちらです?」
室田が、理屈で詰める。
「救われた命を、都合が悪いから捨てる。それがこの山の考え方ですか?」
相原の声も、鋭い。
だが、反対側の空気は硬い。
「穢れを持ち込んだ事実は変わらん!」
「主が鎮まった今、あれは危険だ!」
瀬戸が、一歩前に出る。
「……私が、責任をもって祓います」
静かな声だった。
「どうか、猶予をください」
ざわめき。
そんな様子を、私はもう見ていられなかった。
「やめなさい」
場が、一瞬静まった。
「……その穢れは、みなの穢れよ」
私の声は弱かった。でも、言葉は揺れない。揺らさない。
「彼は、それを背負っているだけ」
ざわつきが広がる。
「主は、言った」
私は、はっきりと言った。
「彼は、蜂子と同じだと」
この一言で空気が、変わる。
「……開祖と、同じ……?」
「能除聖者だというのか……」
瀬戸が、重ねる。
「彼は、磐梯の山を鎮めました」
その名が出た瞬間、どよめきが起きる。噴火の噂は、この山にも届いていた。
沈黙が流れる。そして、やがて、一人の僧が口を開いた。
「……巫女殿。あなたが、祓ってくださるのですな」
「責任は、私が取ります」
瀬戸は、迷いなく答えた。この一言で、ひとまず騒ぎは収まった。
私の宿坊とは別の宿坊、その奥の一室。私は、そこで初めて、満足を見た。
黒い繭。いや蛹か。硬質で、静かで、動かない。
ただ触れると――生きているのは、分かる。
「……前も、こうなりました」
瀬戸がそう呟く。
「……そのときは、どうしたの」
彼の体を包み込む、硬質化した黒い物体を前に、私はそう問いかけた。声は静かだったが、指先はわずかに震えていた。
瀬戸は一歩近づき、満足の様子を確かめるように見てから、答える。
「私が、祓いました」
はっきりと言い切る声。だが、続く言葉で、その限界がにじむ。
「ただ……そのときは、山の神の力を借りました。私一人の力では……」
そこで、言葉が途切れた。そして俯く。その仕草を見て察した。
……もう、何度も試している。祝詞も、結界も、祓いも。そして、どれも決定打にはならなかった、か。
「……私も、力を貸す」
私は、顔を上げた。
「一緒に、やってみよう」
「ルリカさん」
山本が、慌てて口を挟む。
「今、起きたばかりです。無理は禁物です」
正論だった。だけど、私は首を振る。
「……彼が、こうなったのは」
一瞬、言葉を探す。
「ほとんど、私のせい」
室内の空気が、張り詰める。
私は、話した。洞窟の奥で起きたことを。主との対峙。狙われた自分。そして――満足が、何の躊躇もなく身を投げ出したこと。
「……水の刃が、腹に刺さった」
その一言で、榊原が歯を食いしばる。
「……あのバカ」
低い声だった。
「普通、考えるだろ。逃げ道とか、代わりの手とか」
「考えてないんだよ」
私は、静かに否定する。
「何も考えてなかったって、言った」
室田が、眼鏡を押さえながら息を吐く。
「……最悪のタイプの英雄だな」
相原は、拳を握ったまま黙っている。怒りか、悔しさか、それとも――理解か。
瀬戸だけが、まっすぐに私を見ていた。
「……ありがとう」
そう言ってから、続ける。
「それでも、戻ってきてくれて」
私の胸が、きゅっと締まる。
「……みんな、ごめんね」
言葉が、零れた。
「私のせいで……、マンゾク、ごめんね……」
責める声は、ここにはない。ただ、自分だけが自分自身へと向けていた。
感情が、溢れそうになる。
その瞬間――
「ルリカさんのせいじゃありません」
瀬戸の声が、はっきりと割って入る。
「よく、戻ってきてくれました」
一拍置いて、続ける。
「私は……信じていました。ルリカさんも、満足くんも」
その言葉に、榊原も、室田も、相原も、黙って頷いた。
その肯定が、逆に私の胸を打つ。こらえていたものが、決壊しそうになる。
――そのとき。空気が、変わった。
音ではない。振動でもない。主の声でもない。ただ、直接、心に触れる声だった。
『――よくぞ、戻したな』
明日は、二本投稿いたします。6時と16時です。
よろしくお願い致します。




