鏡池の夜明け
夜は、完全には明けていなかった。山の気配が、まだ眠りと覚醒の境目にある時間に、瀬戸澄佳は朝の務めをすでに終えて座り込んでいた。
私は、今日も自然に鏡池の前に立っていた。
意図して来たわけではない。禊をして、祝詞を唱えて、本殿に手を合わせて――その流れのまま、気づいたらここにいる。ここに来てからは、よくあることだ。自分の意志でもあるような、何かに呼ばれているような、あいまいな理由だった。
鏡池は静かだった。風はなく、水面は空を映している。だが、いつもと同じ、とは言えなかった。
深い。覗き込んでも、底が返ってこない。空だけを映しているのに、空を見ている感じがしない。
まるで、水がこちらを見返しているようだった。
私は膝をつき、手を合わせる。
「――どうか」
言葉は短かった。願いを重ねるほど、ここでは通らない。
「彼らを」
それ以上は言わなかった。生きて、とも、守って、とも言わない。ただ、ここへ――と、心の中でだけ続ける。
返事はない。けれど、拒絶もなかった。その感覚が、胸の奥に残ったまま、しばらく動けずにいた。
……何か来る。
突然、そう思った。根拠はない。祈りが届いたという手応えもない。ただ、判断に近い確信だった。
そのときだった。水面が、揺れた。波紋ではない。風もないのに、池全体が、わずかに歪む。
私は息を止めた。そして次の瞬間、空気が変わる。冷たい――いや、違う。水の匂いが、濃くなった。
血。はっきりと、血の気配がした。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。指先が冷える。
「……っ」
声は出なかった。池の向こう、岩肌の奥。目には見えないはずの場所から、圧が伝わってくる。
怒りではない。殺意でもない。何かが、終わろうとしている。そして、何かが、選ばれた。私は、もう一度だけ、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。それでも、そう言うしかなかった。
その直後――鏡池の水が、大きく盛り上がった。
轟音が山に響く。滝のような水が、池の一端から溢れ出す。ありえない量だ。池の水位が下がる気配すらない。
光が走る。洞窟の奥から、青白い光が、一直線に抜けてくる。そして、水と一緒に、何かが吐き出される。
「……!」
私は立ち上がり、思わず一歩、前に出た。
人影が二つ。
絡み合うように、水流の中から現れ、地面に叩きつけられる。
「満足くん……!」
声が、勝手に出た。
彼は動かない。いや――動いてはいるが、人の形をしていない。
黒い影が、体に巻き付いている。硬く、滑らかで、繭のように。蛹のように。ただ、生きている。それだけは、分かる。
もう一人――ルリカが、必死に呼吸している。震えているが、意識はある。
空気が、静まった。あれほどあった圧が、嘘のように消えている。山は、完全に黙っていた。
私は、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
間に合った。――いや、間に合わせてもらった。その理解が、遅れて胸に落ちる。
鏡池の水面は、再び静まり返っていた。何事もなかったかのように、空を映している。
だが、もう私は知っている。この山は、確かに見ていた。そして、この今を選んでくれた。
私は、繭に包まれた満足のそばに駆け寄り、震える手で呼びかける。
「……帰ってきたよ」
返事はない。けれど――彼の内側から、微かに、応える気配があった気がした。




