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平安京エイリアンズ  作者: 岬口大鴉
【十日目】

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鏡池の夜明け

 夜は、完全には明けていなかった。山の気配が、まだ眠りと覚醒の境目にある時間に、瀬戸澄佳は朝の務めをすでに終えて座り込んでいた。


 私は、今日も自然に鏡池の前に立っていた。

 意図して来たわけではない。禊をして、祝詞を唱えて、本殿に手を合わせて――その流れのまま、気づいたらここにいる。ここに来てからは、よくあることだ。自分の意志でもあるような、何かに呼ばれているような、あいまいな理由だった。


 鏡池は静かだった。風はなく、水面は空を映している。だが、いつもと同じ、とは言えなかった。

 深い。覗き込んでも、底が返ってこない。空だけを映しているのに、空を見ている感じがしない。

 まるで、水がこちらを見返しているようだった。

 私は膝をつき、手を合わせる。


「――どうか」


 言葉は短かった。願いを重ねるほど、ここでは通らない。


「彼らを」


 それ以上は言わなかった。生きて、とも、守って、とも言わない。ただ、ここへ――と、心の中でだけ続ける。

 返事はない。けれど、拒絶もなかった。その感覚が、胸の奥に残ったまま、しばらく動けずにいた。


……何か来る。


 突然、そう思った。根拠はない。祈りが届いたという手応えもない。ただ、判断に近い確信だった。

 そのときだった。水面が、揺れた。波紋ではない。風もないのに、池全体が、わずかに歪む。

 私は息を止めた。そして次の瞬間、空気が変わる。冷たい――いや、違う。水の匂いが、濃くなった。

 血。はっきりと、血の気配がした。

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。指先が冷える。


「……っ」


 声は出なかった。池の向こう、岩肌の奥。目には見えないはずの場所から、圧が伝わってくる。

 怒りではない。殺意でもない。何かが、終わろうとしている。そして、何かが、選ばれた。私は、もう一度だけ、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。それでも、そう言うしかなかった。

 その直後――鏡池の水が、大きく盛り上がった。

 轟音が山に響く。滝のような水が、池の一端から溢れ出す。ありえない量だ。池の水位が下がる気配すらない。

 光が走る。洞窟の奥から、青白い光が、一直線に抜けてくる。そして、水と一緒に、何かが吐き出される。


「……!」


 私は立ち上がり、思わず一歩、前に出た。

 人影が二つ。

 絡み合うように、水流の中から現れ、地面に叩きつけられる。


「満足くん……!」


 声が、勝手に出た。

 彼は動かない。いや――動いてはいるが、人の形をしていない。

 黒い影が、体に巻き付いている。硬く、滑らかで、繭のように。蛹のように。ただ、生きている。それだけは、分かる。


 もう一人――ルリカが、必死に呼吸している。震えているが、意識はある。

 空気が、静まった。あれほどあった圧が、嘘のように消えている。山は、完全に黙っていた。

 私は、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。

 間に合った。――いや、間に合わせてもらった。その理解が、遅れて胸に落ちる。


 鏡池の水面は、再び静まり返っていた。何事もなかったかのように、空を映している。

 だが、もう私は知っている。この山は、確かに見ていた。そして、この今を選んでくれた。

 私は、繭に包まれた満足のそばに駆け寄り、震える手で呼びかける。


「……帰ってきたよ」


 返事はない。けれど――彼の内側から、微かに、応える気配があった気がした。

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