信夫宿の宴
信夫の宿は、街道筋にしては賑わっていた。行き交う旅人の数、馬の嘶き、酒と炭の匂い。ここは単なる中継点ではない。人と情報が、自然と滞留する場所だ。
藤原秀郷との会談が、滞りなく終わり、上機嫌な上司の後ろで、近衛恒一はこの道を通るのはもう何度目か。そんなことを考えていた。
多賀城へ戻る途上、あえて歩みを緩めたのは平貞盛の判断だった。俺には、それが「余裕」ではなく「調整」だと分かっていた。
貞盛は馬を下り、軽く肩を回す。鎧の重みを感じさせない所作だが、さすがに長旅の疲れはあるのだろう。それでも表情は崩れていない。
「ここで一晩、休む。急ぐ理由もない」
その言葉に、誰もが安心した。今は進むべき時ではない。馬も、人も、気配も整える段階だ。
藤巻はすでに動いていた。宿の構造、厩の位置、出入口の数。兵の配置と酒の手配まで、視線一つで把握していく。文官だが、場の空気を読むことに関しては、下手な武人よりも鋭い。
そのときだった。
「いやあ、やっと追いつきましたわ」
場違いに軽い声が、宿の前に響いた。
俺は反射的に視線を向ける。
旅装の僧が一人。擦り切れた衣、背負った笈。だが足取りは軽く、呼吸も乱れていない。山を越えてきた人間の歩き方だ。
「東行、と申します」
その名を聞いた瞬間、藤巻の気配が変わった。俺も、気づいた。
……リピーター、杉本晋太郎。ようやく、おでましか。
平貞盛は、僧の顔を見るなり破顔した。
「おお、東行。よう来たな」
「いやあ、貞盛殿も相変わらず元気そうで」
僧と武門の長。だが、やり取りに隔たりはない。肩書きではなく、時間を共有してきた者同士の距離感だった。
「ちょうどいい。今宵は一献やろうぞ」
「ええんか、ご馳走様や」
そう言って、貞盛と杉本は宿へ入っていく。
宴の準備は驚くほど早く整った。ここが街道の要所であることを、改めて実感する。
酒が回り始めると、杉本は自然に貞盛の隣に座った。狙ったわけではない。だが、そこが、一番話が通る位置だと知っている動きだった。
「この間、お主が送ってくれた、……『竹物語』だったか、面白かったぞ」
「気に入ったなら何よりですわ。今、都の貴族の間では、読んでないもんはおらん」
「うむ、では、なおさら感謝せねばならぬな」
貞盛にとって、杉本は都の情報、しかも使える情報をもたらす、貴重な存在であることは間違いなさそうだ。
「で、こちらはどうでしたの?」
軽い問いかけ。だが、ただの世間話ではない。
「色々あったがな」
貞盛は盃を傾けながら、曖昧に笑う。
「まあ、収穫はあった」
「ほう?」
その視線が、俺に向く。
「ええ人材が見つかった」
「……なるほど」
杉本は深くは見ない。
だが、俺の存在を、確かに把握していた。測っている。値踏みではない。危険度の確認といったところか。
藤巻もその様子を横目で見ていた。軽い口調、柔らかい笑顔だが、その下に、刃がある。曲者の匂いを感じ取っている。
やがて杉本は自分から席を立ち、俺と藤巻の前に来た。
「いやあ、やっと挨拶できますな」
距離の取り方がうまい。近すぎず、遠すぎず。
「藤巻です」
「近衛だ」
簡潔な名乗り。
「杉本です。こっちでは東行って名前でやらせてもらってますわ」
名前のみの紹介。余計な情報は出ない。
「自分、今回が初めてじゃないもんでして」
「……そうですか」
それは、すでに知っている。担当は確か増田だったはずだ。
「おたくらの担当は久世さんやったかな」
藤巻が頷く。俺は表情を変えずに、目だけで返事を返す。
「自分、今回の試験が始まってすぐに京へ行って、北陸を少しめぐって、また京に戻って、ようやくこっちに戻ってきましたんで……」
杉本は笑いながら言った。
「京は今、なかなか騒がしいですわ」
ただ、何が騒がしいかは言わない。
「……こちらは?」
今度は探るような視線。
「どうでした?」
答えたのは藤巻だった。
「静かではありませんでしたよ」
「ほう」
「だが、面白い人間が集まってもいます」
藤巻は、似たような情報量で返す。
その言葉に、東行は声を立てて笑った。そして、一歩踏み込んでくる。
「へえ、具体的にはどんな?」
盃を傾けながら、首をかしげる。興味はあるが、驚いてはいない。その間が不気味だった。
「プレイヤーの一人が、多賀城で放火しました」
これは調べればすぐわかる情報だったが、一瞬、空気が止まる。そして、杉本は眉一つ動かさず、続きを待った。
「しかも蝦夷です」
そこで、ようやく反応が来た。
――くっ。
喉を鳴らし、次の瞬間、声を立てて笑う。
「はははっ、そら、面白い」
近衛は内心で、わずかに眉を寄せる。藤巻も同じだっただろう。この場で笑う話ではない。
「で、被害は?」
杉本は笑いを引きずらない。切り替えが早い。
「特には」
俺はそう言い切った。正確には、まだ分からない。だが事実としてはそうなっている。
「それは、おもろうないなあ」
残念そうに言う。だが本気ではない。一瞬だけ、視線が鋭くなる。
「いや、……多賀城の記録が流出しました。おそらく」
藤巻が、そう付け加えた。そして、その一語に、杉本は即座に反応した。
「おそらく?」
今度は、笑っていない。
「つまり、犯人は……」
わかっているくせに。だが、言わせる。
「捕まってません」
藤巻が観念したように答え、続ける。
「燃えたのは城の倉庫の一部。誘導されたとみています。情報に関しては――どこまで持ち出されたか、確認できてません」
杉本は盃を置いた。指で縁をなぞりながら、独り言のように言う。
「火をつけて、被害は最小。目的は混乱、時間稼ぎと目眩まし……」
ちらりと、俺を見る。
「それに、蝦夷を使う」
わざと、言葉を切る。
「これはなあ――」
そして、笑う。
「よう出来た話や。誰が考えたんか、知らんけど」
笑っている。だがそれは、愉快だからではない。何かを理解してしまった人間の笑いだった。
「記録が流れたとしたら、何が困る?」
藤巻が問う。
「困るんは、多賀城やない」
杉本は即答した。
「困るんは、これからや。誰が、どこで、何を管理しとったか。それが分かると――」
肩をすくめる。
「次は、火なんか要らん」
その声が大きく、宴の場に響く。脅しではない予測。
それでも杉本は、最後に小声でこう締める。
「まあ、ええ経験や。この試験、やっぱり――だいぶ危ないなあ」
杉本に笑みが戻る。
俺は、こう理解した。この僧は、杉本はすでに次の局面を見ている。そして――こちらが、それについていけるかどうかを、試している。と。
宴の空気は、完全には元に戻らなかった。酒は進んでいる。笑い声もある。だが、さっきまでとは質が違う。
俺は盃を置いたまま、杉本を見た。相手がこちらを測るなら、こちらも測る番だ。
「さきほどの様子を見る限り――」
静かに口を開く。
「貞盛様とは、だいぶ親しいようだが」
杉本は、即座に否定も肯定もしない。ただ、にやりと笑った。
「まあなあ。京で、よう飲んだ仲や」
「京で?」
藤巻が、間を詰める。
「では、そのころからのお付き合い、ですか」
「ああ」
杉本は、小声だったが、あっさり頷いた。
「あの頃はな、将門も京におった」
一瞬、場の温度が下がる。近衛は、その名が出る重さを知っている。
「……将門が、京に」
確認するように呟くと、杉本は肩をすくめた。
「若い時分や。皆、好き勝手しとった」
それ以上は語らない。語らないこと自体が、十分な答えだった。
俺は話題を切り替える。
「我々は、八月に京へ向かう予定だ」
「ほう」
「何か、気を付けるべきことはあるか」
杉本は少し考える素振りを見せた。だが、深くは考えていない。
「プレイヤーなら、好きに動いたらええ」
「……それだけですか」
「まあ、後輩にちょいサービスするならやな」
盃を傾けながら、軽く続ける。
「あっちはあっちで、プレイヤーが結構、好き勝手やっとる」
「具体的には?」
藤巻が問う。
杉本は、笑った。
「行くんやろ?」
「……ああ」
「なら、自分らの目で確かめたらええ」
はぐらかしだ。だが、自分で確かめる。それもある意味では正しい意見だ。
俺は、最後のつもりで問いを投げた。
「では、東行殿は――何をしに京へ?」
その瞬間、杉本は言葉を切った。一泊置いて、視線が宙を泳ぐ。
そして、低く、歌うように口を開いた。
――筑紫なる 丹ほふ子ゆゑに 陸奥の 可刀利娘子が 結ひし紐解く。
場が静まる。
「万葉集の、防人歌や」
杉本はそう添えた。
藤巻が、素直に首をかしげる。
「疎いもので……、意味は?」
杉本は、悪戯っぽく笑った。
「東北から九州まで来てな、浮気してもうた。ごめん、てへぺろや」
一瞬の間。
「……つまり?」
「女や」
あまりに軽い答えだった。
「都の女は、ええでー」
そう言い残し、杉本は立ち上がる。
「ほな、先に失礼するわ。貞盛殿ごちそうさん。また、近いうちに顔出します」
「おう、今度はゆっくり酒を飲みかわそうぞ」
貞盛が少し酔った口調でそう返す。杉本は、軽く会釈をして、こちらを振り向く。
「君らも、縁があったら、また」
そして、その破戒僧はそのまま、夜の宿を出ていった。残されたのは沈黙だった。
藤巻が、ぽつりと言う。
「……ごまかされたか」
「かもしれんな」
俺は盃を取り、ゆっくりと口をつけた。
「だが、本当に、女かもしれない。とにかく……、侮れない奴だ」
藤巻の言葉に、俺は返さなかった。
――蝦夷を使う。
甘ったるい酒が喉を通り過ぎる。そして、遅れて喉が少し熱くなる。
……違うな、誰もあいつは使えない。
満足を使える奴はいない。あの放火は、あいつの単独犯だ。そこまでは、さすがに読めないか。
そして、続けて胸の奥に、ひとつの顔が浮かぶ。
……瀬戸。
あの山で、何を見ているだろうか。鏡の前で、何を信じているだろうか。
次に会うときは、俺が謝罪するときだろう。
だが、もう準備は終わっている。あとは、彼女がどんな顔でそれを受け取るかだけだ。




