鏡に映るもの
羽黒山に入ってから、瀬戸澄佳はなるべく自分の手順を崩さないようにしていた。禊をして、祝詞を上げ、祈る。それは信心というより、身体の調整に近いものだった。
やるべきことをやることで、余計な思考を切り落とす。
秡川で身を清め、息を整える。声に出す言葉は短く、意味よりも響きを意識する。願いは込めないのは難しい。どうしても漏れ出てしまう。でも、そうならないようには心がけていた。
日課が終わると、気づいたときには、私はまた鏡池の前に立っていた。
意識して来たわけではない。歩いた結果、ここに立っていた、という感覚に近い。
水面は静かで、空を映している。覗き込めば、自分の姿も返ってくる。どちらも等しく、ここにある。ただ、その奥になにがあるのかは見えない。
「よく、ここに来るんだな」
背後から声がした。振り向くと、東郷隆之が立っていた。山装束のまま、肩の力が抜けている。
「そうですね……無意識に、ですが」
「そうか」
並んで池を見る。沈黙は不自然ではない。
「君の仲間は、みんな、忙しく動いてるみたいだな」
「はい」
私は状況を簡単に伝える。榊原は僧兵と稽古を続けていること。室田は町で物資を回し、金と情報を集めていること。相原と山本は、出羽の国府へ出向き、港と連携して、行方不明の二人の捜索を続けるよう手配していること。
「無駄がない」
東郷はそう言って、少しだけ頷いた。
「で、君は?」
「……待っています」
「信じてる?」
「そう判断しただけ、です」
東郷は、笑わなかったが、納得した顔をした。
「ここは鏡だ」
東郷が言う。
「今の自分を映す場所。自分を確認するためには、それが必要だ」
水面に映る、自分自身の像。彼は、それで何を確認しているのだろうか。
「……私は」
言葉を選びながら、続ける。
「映っているものと、その奥を、同時に見てしまいます」
東郷は、少し考えてから言った。
「それは、欲張りだな。危ういとも言えるな」
「自覚はあります」
「なら、いい」
短い肯定だった。
しばらくして、東郷がぽつりと言う。
「前回の担当、久世さんだった」
一瞬、胸の奥が反応したが、顔には出さない。
「神話研究の授業を?」
「いや。院はこっちだが別の学園だったんだ」
少し間を置く。
「久世さんが、まだ非常勤だった頃。一年生向けの歴史学を教えていて、自分はその授業を受けた。もう五年くらい前だ」
過去をなぞるというより、事実を置く話し方。
「その授業で、修験者や山伏は、山師だったという話を聞いた」
「……山師、鉱脈を探す人ですね」
「ああ」
声は柔らかい。
「自分の専攻は半導体。レアメタルも扱う。金属の歴史として、妙に腑に落ちた」
理屈と身体感覚が、同じ方向を向いている人だとわかる。
「この池では、鏡を沈める祭祀が行われるらしい」
「聞いたことがあります」
「銅や銀などの金属イオンは、水を長く澄ませる。清めるための水が濁っては意味がないからな。現代では常識的な知識だが、それを彼らも経験で知っているのかもしれない」
「さすが、詳しいですね」
東郷は少しはにかむ。
「ところで、君はこのVRシステムというかゲーム、どう思う?」
試すような問いではない。経験者の、確認に近い。
「正直に言えば……よくできていると思います」
「どこが?」
「ただ、歴史や神話を再現しているだけじゃない。人が、どう関わるかまで含めて作られている」
「そうだな」
東郷の視線は、水面に落ちている。
「だから危ない」
「……危ない?」
「没入の仕方を、選べない人がいる。戻れる前提で踏み込みすぎると、判断が歪む」
「後遺症、ですね」
「身体じゃない。思考のほうだ」
風が吹き、水面が揺れる。像が一瞬、崩れ、また戻る。
「それでは、なぜ今回も参加を?」
「金がいい、ってのは半分」
「残りは?」
東郷は、一瞬だけ目を伏せる。
「取り損ねたアイテムがある」
「……貴重なものなんですね」
「人魚の肉だ」
私は、少し考えてから言った。
「本物かどうかわかりませんが、彌彦神社で見ました」
「……へえ」
一瞬、間があった。しかし興味なさそうな返事が続く。偽物ならいくらでも出回っているのだろう。初めて越後に行った私たちですら、よく聞いた噂だった。
「祭りのときです。境内じゃなくて、外れのほうに出てた、怪しい見世物小屋で」
ただ、そう言いきったとき、明らかに反応があった。そして、東郷の視線が、水面から外れる。
「……彌彦か」
低く、確認するような声だった。信じたわけじゃない。ただ、条件が揃ったことを、切り分けている感じだ。
短く息を吐く。
「助かった。みんなに、よろしく」
それだけ言って、東郷は歩き出した。決断が早い。きっと、すぐに旅支度を整えて情報の確認に向かうのだろう。
私は、再び鏡池を見る。映っているのは、今の自分。だが、水の奥には――。
……きっと、彼らは辿りつく。
それは祈りではなかった。この場所で待つと決めた者の、覚悟だった。




