羽黒山
庄内平野の奥に進むにつれて、空気が変わっていくのを瀬戸澄佳は感じていた。
山の陰から抜ける風が、湿り気を帯びている。水と土の匂いだ。田は広く、人の気配は途切れない。ここは「前線」ではない。守るための土地ではなく、すでに出来上がった生活の中心だった。
多賀城とは違う。あそこは、国家の縁を押さえるための城だ。だがここは、国家に寄りかからずとも回っている。人が集まり、物が巡り、祈りが機能している。
羽黒山は、その一つの中心となっていた。
山の入口は、いわゆる関所のような厳しさはない。だが、誰でも通しているわけでもない。宿坊があり、僧がいて、修験者が行き交っている。役場のような機能もあり、物資の出入りはきちんと記録されていた。
「ここは三山の中でも、入り口にあたります」
案内役の僧が、淡々と説明する。
「月山から葉山へ抜ける者、湯殿山へ向かう者も、まず羽黒を通ります。祈りも、願も、ここで整える」
修行の山であり、調整の場でもある。私はそう理解した。祈るだけではない。人と山、里と奥、その境目を管理する場所。
門を抜けると、すぐに橋があった。深い谷ではない。だが、はっきりとした境目だ。小さな橋の下を流れる川は、澄んでいて、触れなくとも冷たい。
「秡川です」
僧が言う。
「ここで身を清めてから、山に入るのがしきたりです」
名前の通りだ。穢れを落とすための川。山に入る前に、余分なものを削ぐ。
私は、川面を一瞬だけ見下ろした。水は鏡のように空を映しているが、覗き込めば、何も返さない。ただ流れていくだけだ。
橋を渡ると、参道が続いていた。石段はない。だが、踏み固められている。人が絶えたことのない道だ。
少し登ると、森の中に五重塔が見えた。
派手ではない。だが、立派なものだった。木組みの隙間から、荘厳さ染み込でている。
「将門公の名を、聞いたことはありますか」
僧が、塔を見上げたまま言う。
「東国の武士です。この山は、昔から東の武士たちの支えを受けてきました」
それ以上は語らない。語らないこと自体が、この山の立ち位置を示している。
さらに登ると、道は分かれた。山の中腹に僧房があるという。
「先に、こちらでお休みになりますか」
そう問われて、私は首を横に振った。
「私は、まず本殿へ」
一瞬、僧が目を細める。止めはしない。ただ、意志を量るような視線だった。
山頂へ向かう道は、空気が違う。人の声が薄れ、風の音が前に出る。
やがて、開けた場所に出た。
本殿がある。そして、その手前に――鏡池。
水は静かで、深さが分からない。覗き込んでも、底は映らない。空だけを返す。
私は、そこで足を止めた。
……ここに、来る。
理由はない。ただ、私はそう確信していた。満足とルリカは、生きている。そして、ここへ辿り着く。それは希望ではなく、判断に近い感覚だった。
本殿に進み、静かに手を合わせる。
「どうか、彼らに」
言葉はそれだけだ。加護を、とも、救いを、とも言わない。
返事はない。だが、拒絶もない。
私は、それで構わないのだとすでに理解していた。
山を下り、僧房に戻ると、声が聞こえた。
「え、蔵王からですか!?」
「ああ……」
榊原と室田の声だ。完全にゲーマーの調子で質問を浴びせている。その中心に、修験装束の男がいた。落ち着いた姿勢で、淡々と答えている。
「蔵王から入って、葉山を越えた。月山は昨日。湯殿には今回は寄ってない」
それがどれほどの行程か、山を知らない者にも伝わる言い方だった。
私は、そこで初めて声をかけた。
「はじめまして。瀬戸です。学園の二年です」
男は、視線を向け、軽く頷く。
「東郷隆之です」
簡潔な名乗り。服装、所作、呼吸。修験者だ。しかも、かなり山に慣れている。
「……学院生、です」
東郷はわずかに口角を上げた。短い会話だった。
その流れで、東郷が何気なく言う。
「私は、今回の参加は二度目です」
室田が、思わず声を上げた。
「え、二回目!?」
「ええ。だから、少しだけ事情は知っています」
少しだけ。その言い方が、何かを含んでいる気がした。
「そうですか」
曖昧な相槌に、東郷は頷くだけで、何も誇らなかった。そして、彼は懐から包みを取り出し、僧に差し出した。中身を見た僧が、わずかに目を細める。
「砂金……」
「平貞盛様より」
その名が出た瞬間、空気が一段、締まった。
「山の維持に、と」
僧は深く礼をし、包みを受け取る。
「確かに。近頃は、多賀城からの支えも大きい、感謝いたします」
将門と貞盛。討たれた救世主と、討ち取った英雄。その双方の名が、同じ場所で語られている。矛盾ではない。羽黒山は、そういう場所なのだ。
私は、ここでようやく自分の番だと理解した。
「こちらを」
如蔵尼から預かった手紙を差し出す。僧は受け取り、宛名に目を通した。
「検校様宛てですね……」
少し間があった。
「申し訳ありません。現在、山を留守にしておりまして。戻り次第、必ずお取り次ぎします」
制度的な返答だ。誠実だが、即答ではない。
「承知しました」
私は、感情を挟まなかった。ここで急かすことは、何の意味も持たない。
僧は続ける。
「それまで、山内でお過ごしください」
私は、喉の奥が乾くのを感じた。だが、表情には出さない。
夜、宿坊で横になる。横では、相原がすでに寝息を立てていた。
目を閉じると、満足とルリカの顔が、浮かぶ。駆け出したい衝動を、理性で押さえ込む。
……探しには行かない。今は待つべき。
そう思いながら嚙み締めた唇が、少し痛かった。




