夏休みの思い出
流れに沿って進んでいくと、洞窟は急に開けた。
いや、開けたというより――塞がれた。
足元いっぱいに、水が溜まっている。静かな水面が、洞窟の天井を鈍く映している。奥は暗く、水の先に何があるのかは分からない。
ただ一つ分かるのは。
「……これ」
僕は、水たまりの縁で立ち止まった。
「潜らないと、先に行けないわね」
ルリカが、あっさり言う。
深さは分からない。底も見えない。しかも、水は冷たいはずだ。
「戻る選択肢は?」
「ほぼない」
即答だった。
「ここまで来て、引き返したら、たぶん体力の無駄」
それは、その通りだった。
僕は水面に小石を投げる。音は、すぐに吸い込まれる。反響はない。思ったより深い。
「……一回、なにか腹に入れよう」
そう言うと、ルリカは少しだけ安心した顔をした。
「それ、助かる」
岩の出っ張りに腰を下ろす。装備を確認する。
干し肉は、道中に食べつくした。穀物は……正直、一人分くらい。
「これ、二人で食ったら終わりだな」
「でも、食べないと」
「だな」
ルリカは、少し考えてから、足元の岩を見た。
「……ねえ、その銅鏡」
「これ?」
さっき見つけた、割れた銅鏡。
「これに電気、通せるよね」
嫌な予感がした。
「まさか……」
「即席IHコンロ」
「雑すぎるな」
「でも、ほかに選択肢ある?」
ない。
ルリカは銅鏡を平らな岩の上に置き、そこに少量の水を張る。そこへ、雑穀をばら撒く。
指先に、あの微弱な青白さ。じわ、と、水が震える。熱は弱い。だが、確かに温度が上がっていく。
「……雑穀煮込み?」
「リゾットって言って」
「おしゃれに言うな」
その間に、僕は立ち上がった。
「タンパク質、取ってくる」
ルリカは、少しだけ目を丸くする。
「まさか……」
「この辺、いる」
探索スキルが、はっきり告げていた。湿地。水場。洞窟なら、やっぱりいる。
数分もしないうちに、見つけた。
洞窟の壁際。ぬめった岩の隙間。
小さなカエル。それと――細い蛇。
「……うわ」
自分で言って、自分で苦笑した。だが、選り好みしている状況じゃない。手際は、悪くない。昔の知識と、ゲームのスキルが勝手に動く。
ルリカのところに戻ると、彼女は少し顔をしかめた。
「それ、食べるの?」
「食べる」
「……」
数秒、沈黙。
「……浄化するから、貸して」
彼女は、静かに言った。
指先を水に浸し、短い祝詞。水が澄む感覚。穢れが、抜ける。
「……刺身?」
「プレートで焼いてもいいぞ」
「だよね」
カエルと蛇の身。正直、見た目はあまり良くない。
だが――口に入れた瞬間、思ったよりも、ずっと普通だった。鳥のささ身に似た味。癖がなくて、あっさりしている。
「全然いける」
僕がそういうと、ルリカも目をつむって口に入れる。
「……あ」
ルリカが、目を見開く。
「これ、意外と……」
「いけるだろ」
「うん。普通に、いける」
少しして、雑穀も炊けてきた。銅鏡の上で、水分を足しながら、なんとか粥状にする。
「……すごいわね、これ」
「応急処置の極みだな」
それでも、温かい。二人で分ける。量は少ない。だが、腹に入ると、はっきり違う。
ルリカは、スプーン代わりに木片で掬いながら言った。
「わあ……こんなご馳走、初めて……」
完全に皮肉だ。
「文句言うな」
「……」
「旨いカツ丼、食わせてやったろ」
「私も砂糖を提供したでしょ。貴重なのよ砂糖、都でもなかなか手に入らないんだから」
そう、料理に砂糖は大事。学園に入ってから、自炊するようになったからよくわかる。それに、あのカツ丼はみんなで材料を出し合って、みんなで作った。だから――。
「……あれ、旨かったよな」
その言葉で、ルリカは一瞬、動きを止めた。
「うん、……それに、楽しかった」
小さく、そう言う。
「雨で、関所で、みんなで」
「ああ」
あの騒がしさ。NPCたちの驚いた顔。榊原の無駄にテンション高い声。
「……対照的、すぎるね」
「落差がやばいな」
ルリカは、少しだけ笑った。
「でも」
雑穀を口に運びながら。
「どっちも、いい思い出にはなりそう」
その言葉に、僕は何も言わなかった。
……夏休みの思い出、一つはできたかもな。
水たまりが、静かにそこにある。先は、見えない。だが――腹は、少しだけ満ちた。体力も、少しだけ戻った。
「……行くか」
僕が言うと、ルリカは、はっきり頷いた。
「泳ぐの、得意?」
「普通」
「私、あんまり」
「沈めないから安心しろ」
「それ、信用していいやつ?」
「今は、するしかない」
短く笑ってから、僕は装備を取り外した。
「まず、この先、どこかに繋がってるか確かめてくる。ルリカはそれまで待機で」
再び、ふんどし姿になった僕が真顔でそう告げると、ルリカは少し笑いをこらえながら答える。
「おけ」
僕は構わず、水の前に立つ。この先には明かりがない、深い闇が待ち構えている。ただ、どのみち、選択肢はない。僕たちには、それがはっきり分かっていた。
僕は、装備を最小限にまとめた。濡れて困るものはない。山刀だけは腰に残す。水中で邪魔にならない位置に固定する。
水面に足を入れると、想像より冷たい。骨に来るタイプの冷えだ。
深呼吸を一つ。
そこで、胸の奥が――わずかに動いた。
ざわめきじゃない。警告でもない。ただ、水の流れに反応している感覚。水の中にある方向、逆らう方向。祓われる方向……。
……なるほどな。
そう呟いて、水に身を沈める。
視界は、すぐに消えた。光は届かない。音も鈍る。ただ、水の圧と、体の向きだけが残る。流される感覚がある。引かれる方向がある。
そのまま行けば、楽だ。
でも、胸の奥が祓われ続けている感覚。削られる感覚、これに逆らう。そこが上流、つまり先につながっているはずだ。
水中で腕を伸ばし、足で蹴る。肺が少しずつ縮む。ただ方向は、間違っていない。
突然、指先が空を掴んだ。そして、次の瞬間、顔が水面を割る。
空気。岩。天井は低いが、立てる。狭い空洞だ。水はここまで来ていない。
「……繋がってた」
そう独り言を言ってから、僕は今来た、洞窟の水道を戻る。
水際で待っていたルリカが、こちらを見る。
「どう?」
「出られる。空気もある」
「じゃあ」
そういうと、彼女は、僕が脱ぎ捨てた装備を持ってくる。
「これも運んでね。ペースはまかせるわ」
……全部、僕が運ぶのね。
往復は、きつかった。泳ぐのに邪魔にならないように、装備を少しずつ運ぶ。最初はなんでもなかったが、繰り返していくうちに、息が荒れる。水を飲みそうになるたび、喉が勝手に閉じる。腕が重い。それでも、流れは変わらない。逆らえば、抜けられる。
そして最後。
戻ると、仁王立ちで真紅のビキニ姿のルリカが待っていた。
彼女は、短く息を吐いた。
「じゃあ……最後、私ね」
「ああ」
視線を合わせると、彼女が水面に足を入れる。
「……見えない」
「見なくていい。だから離すなよ」
「わかってる」
言葉は、それだけでよかった。
彼女を抱え込んで、体勢を作り、水に潜る。彼女の体が、少しだけ強張るのが分かる。
腕に力を込める。流れが、僕たちを引く。胸の奥が、静かに導く。逆らう方向を、間違えない。
水の中で、彼女の鼓動が伝わる。早い。でも、乱れてはいなかった。
抜けた。水面に頭が出て、二人分の体重が、岩岸にぶつかる。
空気が入り込み、ルリカが軽く咳こむ。そしてそのあとに、笑った。
「……ほんとに、沈めなかったわね」
「それは、約束したからな」
そう言ってから、力が抜けた。
抜けた先の空洞で、ルリカが再び岩壁に電気を通す。淡い光が、空洞を照らす。
岩肌。先へ続く、細い通路。奥に、確かに空間があるのが分かる。
「……つながってるな」
「ええ」
それから、僕たちは装備を確認した。
水を潜った分、装備はすべて重い。脱いで岩の上に並べると、布も革も、しっかり水気を吸っていた。
ルリカは、再び一つずつ、装備を乾かす。
僕は、ほとんど攣りそうだった足を延ばしながら、服が乾くのを待った。
外套、上着、ベスト。一つ乾かすごとに、彼女はほんの一瞬、息を整える。動作は正確だが、明らかに集中力を削っている。
最後の装備を乾かし終えたとき、そこで彼女の肩がわずかに落ちた。
――呼吸が浅い。
照明、調理、装備の乾燥。短時間で、スキルを使いすぎている。
「……限界だな」
そう言うと、ルリカは一瞬だけこちらを見て、苦笑した。
「さすがに、ね。もう一回やれって言われたら、失敗する」
それは、ほとんどMP切れの宣告だった。
僕は通路の先を見たあと、首を振る。
「今日は、ここまでだな」
「そうね」
即答だった。
そして、岩に寝転がると、ようやく体の力が抜ける。洞窟の天井が、ほのかに光っているのが見える。
「なんか、星空を見てるみたいね」
隣で横になっていたルリカがそう呟く。
「星空を寝転んで眺めるなんて、……夏休みの定番って感じだ」
「そうね、そういえばよく見たかも」
「リア充め」
そう呟くと、ルリカは少し笑っていう。
「京崎ルリカと、夏休みに一緒に星空を見たって、自慢してもいいよ」
「しない」
そう即答すると、ルリカはまた軽く笑った。そして、それから無言で、少しずつ弱くなってくる天井の明かりを眺めていた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
光は消え、洞窟は再び闇に戻る。だが今は、その闇が、少しだけ安全に感じられるような気がした。




