洞窟の伝承
日が落ちきる前に、船は、二度目の袖の裏へ戻った。櫂の音が止まり、船体が岸に擦れる。張り詰めていた空気は緩んだが、気持ちはさらに大きく沈んでいた。
私は甲板から降りると、振り返らずに深く息を吐いた。
収穫があった、そう言うにはあまりにも足りない。
「……結局、見つからなかったな」
室田が、誰にともなく言った。声は低いが、無理に明るくしようとしているのが分かる。
「海、広すぎるよな」
榊原も続く。彼は悔しそうに笑っていた。
その言葉に、私は何も返さなかった。
山本が役場の人間と話をつけ、私たちは精度の怪しい手描き地図の前に集まる。
相原が指で場所を示した。
「このあたり。風向きと波を考えると、落ちたのは、ほぼここで間違いないでしょう」
「岸寄りだな」
役場の男が顎をさする。
「沖ならもう少し流れるが、この距離なら……岩に打ち上げられていてもおかしくない」
打ち上げられていても。その言い方が、胸に刺さる。
「今日のところは、探索はここまでだ」
船頭が静かに言った。
「夜に無理をすれば、今度はこっちが危ない。探すなら、明日、天気を見てからだ」
合理的で正しい判断だ。それが分かっているからこそ、私は何も言えなかった。
宿に戻る途中、誰も多くを話さなかった。言葉にすれば、何かが壊れる気がした。
翌朝、空は薄く晴れていた。
「今日は、陸と海、二手に分かれて探しましょう」
相原が言う。決断というより、確認だった。海からの探索は、海の専門家に任せて、私たちは陸から、落水があった近くとみられる場所を、順に探索することにした。
海岸線に降りる道はあった。だが、人が這い上がった痕跡はない。衣の切れ端も、血もない。
「……流されたなら、北だな」
地元の男が、遠くを見ながら言う。
「このあたりは、そういう流れだ」
日本海は広い。言外に、それ以上の言葉が含まれていた。
そこで、別の話が出た。
「この先には、洞穴がたくさんある。そこで船を誘う女を見たという話もきくな」
そこで、私は思い出す。たしかに、あの荒海で、その姿を見た気がする。私は何となくしか見ていなかったけど、あのとき、満足とルリカは岸を見ていた。意識を確実に、向けていた。
「そういえば、何か聞こえた気がします」
相原がそう口に出す。
「聞こえた?」
「いや、あの状況、正直そんな余裕なかったわ」
室田と榊原が、互いに確認するように言葉を交わす。
「まあ、羽黒山の開祖様も、そこで呼ばれたって話だしな。それで、その洞窟で修行されたって話だ」
「洞窟の場所わかりますか?」
私がそう尋ねると、男は少し面倒くさそうな表情を浮かべる。
すると、山本が米袋を取り出し、男に手渡す。
男は確認して、それを受け取ると、頭をかく。
「まあ、案内してもいいが、主がいるとも言うしな。蛇だか、龍だか。とにかく、水神さまだ。なので、近くまででいいか」
「それで構いません」
私は、さきほどの話を聞きながら、喉の奥がひやりとするのを感じていた。
――船を呼ぶ。呼ばれた。
それからしばらく歩いた。そして、そこから海岸の岸壁に向かう。海は、まだ荒れている。近づくことはできなかったが、遠くから見てもたくさんの裂け目があることがわかる。中は暗くて見えないが、洞窟の入り口と言われれば、どれもその通りに見える。
「開祖様が修行されていたのが、どこの洞窟かはわからねえ。ただ、そこは羽黒山の池に通じているという話だ」
冷たい空気。湿った岩肌。そして――そこに混じった、どこか慣れ親しんだ穢れの気配。
……あそこに、きている。
満足の気配。それに、混じる穢れの残滓を確かに感じる。穢れが、流れている。
胸が、きしんだ。不安じゃない。恐怖でもない。――むしろ確信、そしてひとまずの安堵に近い。彼は、そこに行っている。ただ、そこは私が踏み込めない場所だった。
榊原が、小声で言った。
「……中、入る方法を探すか?」
私は首を振った。
「無理だと思う」
素直に思うところを言った。自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「ここは、私たちが進める場所じゃない」
波の音が、割れ目に吸われていく。
「でも……」
「装備も、技量も、足りてない」
冷たい言い方になったかもしれない。それでも、言わなければならなかった。山本が、私の横で小さく頷いた。
「ルリカさんがいれば……きっと」
言葉を切った。
私は、洞穴の奥を見つめる。彼はしぶとい。きっと戻る。理由はない。論理もない。ただ、そういう人間だと知っている。
「……出てくるわ」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
相原が、ちらりと私を見たが、誰も反論しなかった。信じたわけじゃないだろう。ただ、否定はされない。
私は、空を仰いだ。感情は、まだ奥に押し込めたままで。今は、理性的に。
……彼が戻るまでは。




