境界の向こう側で
ログイン前の静けさは、いつも少しだけ遅れてやってくる。
ヘッドセットを被る前、椅子に腰を下ろしたまま、僕は昨日のことを思い返していた。九日目。ゲーム内では一ヶ月分も進んだはずなのに、振り返ってみると、やけに大人しい一日だった気がする。
戦いはあった。移動もあった。人も増えた。それなのに、どこか拍子抜けするほど、内側は静かだった。
——あいつが。
あの、胸の奥でざらつく感じ。判断を早め、躊躇を削ぎ落とすあれが、昨日は驚くほど表に出てこなかった。抑え込んだわけでもない。意識して距離を取ったわけでもない。ただ、最初から最後まで、妙に影が薄かった。
そのくせ、完全に消えていたわけでもない。はっきり覚えている。反応したのは、一度きりだった。
彌彦神社の、見世物小屋。思い出すと、今でも少し胃の奥が冷える。
祭りの喧騒の中で、あそこだけ空気が違っていた。派手な看板。人魚の肉。百年生きるだの、不死の証だの。どれも詐欺みたいな文句だったのに、笑って流せなかった。
理由は、正直よくわからない。
ただ、見た瞬間に、胸の奥が「引っかかった」。嫌悪とも違う。恐怖とも違う。もっと、鈍くて、重いもの。あの布の向こう側に、何かがあったのか。
はっきりした映像は、今でも思い出せない。影が動いた気がした。首が伸びたような、歪んだ輪郭が見えたような気がする。
でもそれ以上に、強く残っているのは——あいつが動いた、その感覚だった。
あのときだけ、動いた。前に出るでもなく、背中を押すでもなく、ただ、底の方でざわりと揺れた。
あれは、呼応だったのか。警告だったのか。考えようとすると、途端に輪郭がぼやける。
結局、僕は何もせず、その場を離れた。瀬戸に袖を引かれて、歩き出した。
——瀬戸。
九日目、彼女との距離は、少し縮まったと思う。ただし、それは現実でどうこう、という話じゃない。
彼女と繋がっている感覚は、ほぼ完全に向こう側にある。VRの世界で並んで歩き、同じものを見て、同じ危うさを感じている。だけど、こうしてログアウトした瞬間、その糸は一度、切れる。
現実に戻っても残っていた関係もあった。
昨日の夜、新潟で食べたラーメンとチャーハンと餃子。完全に食べ過ぎた。胃が重い。正直、まだ引きずっている。でも、あの脂っこさは嫌いじゃなかった。榊原の大声。室田のくだらない話。ビールの冷たさ。あれは、間違いなく「こちら側」の感覚だ。けれど、その関係は、どちらにいても変わらない。現実に引き戻される、ちゃんとした重さがあった。
その一方で、頭のどこかでは、ずっと美羽のことを考えている。
彼女の痕跡、それを見つけることで、僕は何をしようとしているのか。彼女が学園に来ていないこと。僕らが別れてから、この二年足らずの間に、彼女が何をしてきたのか。それを知りたい気持ちは確かにある。
一方で、それを知ったからといって僕は、何がしたいのかは分からなかった。その距離を埋めようとしているのか。できるならば、もう一度、彼女と同じ時を過ごしたいと感じているのか。それは、自分でも不確かなままだ。
それが僕にとっての希望なのか、変な思い込みなのかも、わからない。でも、今の僕が前に進んでいる理由の一つであることは、否定できなかった。
あいつの静けさ。
美羽の不在。
瀬戸との距離。
現実の胃もたれ。
全部が、きれいに噛み合っていない。それでも、ヘッドセットをまた被る理由には、足りていた。噛み合っていないからこそ、確かめに行くしかない。
――ログイン。
視界が切り替わり、音が戻る。最初に感じたのは、冷たさだった。
雨。
しとしとと、嫌な降り方をしている。港の木材は濡れ、甲板は滑りやすくなっている。
……これは、出航が遅れそうだ。
ついてないな、と思う。でも、その感想に、妙な安堵が混じっていることには、気づかないふりをした。
昨日は静かだった。だから今日は、何かが起きる。
そんな予感だけを、胸の奥に抱えたまま、十日目が始まろうとしていた。




