第1話 クラウス・ストライス
この世界には、様々な種族が存在している。
人間族。
エルフ族。
ダークエルフ族。
ドワーフ族。
獣人族。
竜人族。
龍族。
そして――魔族。
それぞれの種族が、それぞれの文化と文明を築き、この世界で暮らしている。
姿も違えば、言葉も違う。
生き方も、考え方も違う。
そんな世界には、あらゆる場所に満ちている力があった。
――マナ。
大地、空気、海、そして自然そのものに宿る世界のエネルギー。
人々は古くから、このマナを利用する技術を発展させてきた。
その代表ともいえるものが――魔法。
マナを利用して魔法陣を描き、それを媒体として様々な現象を引き起こす。
炎を生み出す者。
水を操る者。
風を纏う者。
大地を動かす者。
そして、この世界に生きる者たちには、生まれながらにして一つの器官が備わっている。
魔力回路。
マナを取り込み、魔力へと変換し、身体へと巡らせるための器官。
それによって、人々は魔法という力を扱うことができる。
しかし、力を扱う方法は魔法だけではない。
武器や己の肉体を媒体とし、内なる力を巡らせ、身体能力や攻撃力を強化する技術。
それを――闘気という。
魔法に長けた者は魔法を極め。
武術に長けた者は武闘を極める。
中には、その両方を使いこなす者もいる。
魔法と武闘。
二つの力が共存する世界。
それが、この世界では当たり前だった。
――そんな世界の、とある国。
アレクサンドリア王国。
その王国の一角に、とある伯爵家があった。
その日――
激しい嵐が、その地を覆っていた。
黒い雲が空を埋め尽くし、激しい雨が大地を叩きつける。
時折、空を裂くような雷鳴が轟いていた。
そんな嵐の夜。
伯爵家の館では、一人の子供が生まれようとしていた。
「はぁ……はぁ……」
一室から、苦しげな息遣いが響く。
ベッドの上では、一人の女性が激しい陣痛に耐えていた。
「奥様! もう少しです!」
メイドたちが懸命に声をかける。
「わかってる……」
女性は苦しげに息を吐きながら、自らの腹へ手を添えた。
「もうすぐ……我が子が……」
彼女の名は――ユエル・ストライス。
この館の主、伯爵ブリューゼ・ストライスの妻だった。
艶やかな長い黒髪には、一筋の白い髪が混じっていた。
「もうすぐ旦那様がお戻りになります! どうか、もう少しだけ!」
「そう……」
ユエルは苦痛に耐えながら、僅かに微笑む。
そして、まだ見ぬ我が子へ語りかけるように、優しく腹を撫でた。
「我が子よ……」
「もうすぐ、お父様も帰ってきますよ……」
その時だった。
扉の向こうから、慌ただしい足音が響く。
「奥様!」
執事の声だった。
「間もなく旦那様が到着いたします!」
「そう……」
ユエルは小さく息を吐いた。
「もう……少しね……」
だが――
次の瞬間。
「……っ!」
激しい痛みが彼女を襲った。
「奥様!」
「もう生まれます!」
メイドたちが一斉に動き出す。
そして――
激しい雨に打たれ、全身ずぶ濡れになった一人の男が館へと駆け込んできた。
ブリューゼ・ストライス。
この館の主であり、伯爵の爵位を持つ男だった。
赤みを帯びた髪を後ろへ流した、精悍な顔立ちの青年だった。その髪は激しい雨に濡れ、額に張り付いていた。
「執事!」
荒い息を吐きながら、ブリューゼが叫ぶ。
「妻は!? ユエルは!?」
「旦那様! よかった……!」
執事が駆け寄る。
「もう間もなくお生まれになります!」
「そうか……!」
ブリューゼは安堵の表情を浮かべた。
「飛ばしてきた甲斐があった……!」
そして――
その直後。
館の中に、一つの声が響き渡った。
――おぎゃあ!
産声。
新たな命が、この世界へと生まれ落ちた。
「生まれました!」
その声を聞いたブリューゼは、思わず息を呑んだ。
やがて、ユエルの腕に小さな命が抱かれる。
「……あぁ……」
ユエルの目から、涙がこぼれた。
「あなた……」
ブリューゼも、我が子を見つめる。
小さな身体。
小さな手。
そして、何も知らない穏やかな寝顔。
「名前は……」
ユエルが小さく呟く。
ブリューゼは、我が子を見つめながら答えた。
「……クラウス」
「クラウス……」
ユエルは、その名を優しく繰り返した。
「クラウス・ストライス……」
その夜。
嵐の中、一人の少年が生まれた。
――クラウス・ストライス。
それが、彼の人生の始まりだった。
⸻
一ヶ月後
あれほど荒れていた空が嘘のように、穏やかな日々が訪れていた。
館の一室。
乳母に抱かれた赤子が、静かな寝息を立てている。
黒い髪。
その頭頂部には、母ユエルと同じように、一束だけ白い髪が混じっていた。
小さな身体。
クラウスは、すやすやと眠っていた。
「まぁ……本当によく眠る子ですね」
「ふふ。昨日もよく眠っていましたよ」
メイドたちも、クラウスを微笑ましそうに眺めている。
そこへユエルがやってくる。
「クラウス……」
乳母から我が子を受け取る。
ユエルはクラウスを胸に抱き寄せ、頬をそっと寄せた。
「よく眠っているわね……」
クラウスは何も答えない。
ただ、小さな手を僅かに動かした。
ユエルは、その手を指先で優しく包む。
「あなたは……どんな大人になるのかしら」
その姿を、少し離れた場所からブリューゼも眺めていた。
「きっと、俺より立派な男になるさ」
「あなたより?」
「なんだ、その顔は」
「ふふっ」
穏やかな笑い声が、館に響く。
そこには――
誰が見ても幸せな家族の姿があった。
しかし。
その幸せな時間の裏側で――
一つの異変が、静かに始まっていた。
⸻
それから、さらに時が過ぎた。
ユエルの身体は、なかなか回復しなかった。
最初は誰もが、出産による疲労だと思っていた。
だが、日が経つにつれて――
ユエルの体調は少しずつ悪化していった。
食事も思うように取れなくなり、身体を起こしていることさえ辛くなっていく。
それでも、クラウスの前では笑おうとした。
「大丈夫よ……クラウス」
小さな我が子を抱きながら、優しく微笑む。
「お母さんは……大丈夫だから」
その声には、以前のような力はなかった。
そして、王国でも名の知れた高位治癒師が呼ばれた。
診察。
治癒魔法。
薬。
あらゆる手が尽くされた。
それでも――
「……申し訳ありません」
治癒師は、重い表情で首を横に振った。
「原因が……分かりません」
「分からない……だと?」
ブリューゼの声が震える。
「治癒魔法は正常に作用しています。しかし……症状が改善しないのです」
「治る見込みは?」
長い沈黙。
「……現状では、何とも申し上げられません」
ブリューゼは拳を強く握りしめた。
⸻
そして――
その時は訪れた。
ユエルの呼吸は、日に日に弱くなっていた。
ベッドの傍らでは、ブリューゼが彼女の手を握っている。
「……あなた……」
弱々しい声。
「ここにいる。俺はここにいるぞ、ユエル」
ユエルは、ゆっくりと目を開ける。
そして、ブリューゼを見つめた。
「……愛してるわ、ブリューゼ……」
「…………」
「……あの子を……お願い……」
それが――
ユエルの最後の言葉だった。
静かに目を閉じる。
「……ユエル?」
返事はない。
「ユエル……?」
握っていた手から、少しずつ力が失われていく。
「…………」
ブリューゼは、ただ彼女の手を握り続けていた。
何を言えばいいのか。
何をすればいいのか。
分からなかった。
「…………ユエル……」
ただ、その名前を呟くことしかできなかった。
⸻
ユエルの葬儀は、静かに執り行われた。
ブリューゼはクラウスを腕に抱いたまま、妻との最後の別れを迎えた。
まだ幼いクラウスは、何も知らずに眠っている。
母がもう二度と戻らないことも。
自分を抱いてくれた温かな腕が、もう動かないことも。
何も知らない。
ただ、父の腕の中で眠っている。
ブリューゼは、最後まで妻を丁重に見送った。
そして――
葬儀を終えたその夜。
館の一室で、一人の男が酒を飲んでいた。
「…………」
一杯。
また一杯。
それでも、胸の奥にある痛みは消えない。
愛する妻を失った悲しみ。
これから先への絶望。
そして――
クラウスを見るたびに思い出してしまう、ユエルの最期。
「……ユエル……」
酒を飲み干す。
翌日も。
その翌日も。
ブリューゼは酒に逃げ続けた。
数日が過ぎても、悲しみが薄れることはなかった。
そして――
ある夜。
再び、激しい雨が降り始めた。
雷鳴が轟く。
クラウスが生まれた、あの夜と同じような天候だった。
館の廊下を、一人の男が歩いている。
ブリューゼだった。
その手には――
一本の短剣が握られていた。
雷光が窓から差し込み、刃を一瞬だけ照らす。
ギラリと光る刃。
その先には――
クラウスの眠る部屋があった。
扉が静かに開く。
ベッドの上では、クラウスが眠っていた。
「…………」
ブリューゼは、何も言わない。
ただ、我が子を見つめる。
その胸の中には、激しい感情が渦巻いていた。
憎い。
最愛の妻――ユエル。
その命を奪ったものが、目の前にいる。
短剣を握る手が震える。
ゆっくりと、刃がクラウスへ向けられる。
そして――
振り下ろそうとした。
だが。
止まった。
「…………っ」
腕が動かない。
短剣を握る手が、震えている。
その時だった。
ぽつ。
何かが、手の甲に落ちた。
ぽつ……。
また一滴。
そして、その雫は――
眠るクラウスの頬へ落ちた。
「……ん……」
クラウスの瞼が、ゆっくりと開く。
「……あ……」
小さな瞳が、目の前にいる父親を捉える。
そして――
「キャッ……キャッ」
嬉しそうに、小さな手を伸ばした。
「…………」
ブリューゼは動かなかった。
クラウスは笑っている。
何も知らず。
何も疑わず。
ただ、父親を見て笑っている。
その瞬間――
ブリューゼの目から、一筋の涙が流れた。
ユエルを失ってから、初めて流した涙だった。
「クラウス……」
声が震える。
「……すまない」
握りしめていた短剣が、ゆっくりと下がっていく。
「情けない父を……許しておくれ……」
「キャッキャッ」
クラウスは、嬉しそうに手を伸ばす。
ブリューゼは、その小さな手を見つめた。
胸の中で、二つの感情が激しくぶつかり合っていた。
愛する妻を奪ったものへの――憎悪。
そして。
愛する妻が遺した、この小さな命を守らなければならないという――想い。
「…………」
やがて、ブリューゼは静かに立ち上がった。
短剣を握ったまま、しばらくクラウスを見つめる。
そして――
父として、一つの選択をした。
その選択が何だったのか。
その時のクラウスは、まだ何も知らない。
ただ――
その夜を境に。
クラウスの運命は、少しずつ動き始めていた。
初めての第1話投稿です!
緊張とドキドキ、そしてワクワクのスタートです。
これからよろしくお願いします!




