生存のご褒美
呼びかける言葉すら、研究者が走らせる猛烈な羽ペンの音にかき消された。
狂ったように羊皮紙をなぞるその速度は、もはや聖母の優雅さなど微塵もない。
ミラーラはもう周りが見えていない、瞳に映るのは俺ではなく、そこにあるのは底なしの知識欲だけだ。
これ以上ここにいたら、魂まで勝手に定義されかねない。逃げるように、重厚な図書室の扉を引いた。
ガチャン、と真鍮の錠が降りる。その瞬間、扉の向こうから。
「……素晴らしいわ。既存の魔導体系では説明がつかない。世界の理が書き換わる、坊やの"定義"を完成させてあげるわ!」
歓喜の叫びが漏れ聞こえてきた。背中を伝う嫌な汗を拭い、俺は監獄の冷えた廊下を足早に去った。
向かう先は、訓練場だ。親方やミラーラに比べれば、まだルーガディやローシャのほうが、物理的で道理が通っているはずだ。
訓練場の重い扉を開けると、鉄錆と、古びた革、そして隠しきれない血の匂い。そこにはローシャと、岩山のような体躯のルーガディが立ち塞がっていた。
ルーガディは、俺の視線まで腰を落とすと、困ったように眉を下げて微笑んだ。その一言一句は、教育者としての落ち着きがあった。
「……ひどい顔だ。だが、心臓の鼓動は昨日より力強い。いい傾向だ」
ルーガディは俺の肩をズシリッと掴み、足元に転がった薄い鉄盾を拾い上げ、丁寧に握らせた。
「……この監獄が君を押し潰す前に、私が君に生き延びる資格を授けてあげたいんだ。これは、心からの献身だと受け取ってほしい」
ルーガディはそう言って立ち上がると、流麗な所作で巨大な木槌を肩に担いだ。
「ルーガディ……待ってくれ……」
後頭部から背筋を通り足に浸透するような、恐怖が駆けていく。
「言葉というものは、常に真実を伝えるわけじゃない。だが! この衝撃は嘘をつかない。構えてくれ。君の限界を、一緒に見つけに行こうか」
ルーガディの瞳に宿る知性が、鋭い選別者のそれに変わった。
踏み込みの予備動作すら見せないまま、風が悲鳴をあげて善意が襲う。
「――っ!?」
視界が瞬転した、恐怖に瞼が張り付き、情けなく腰が引ける。無軌道に突き出した盾に、木槌が直撃した。
爆ぜるような衝撃が全身を駆け抜け、左腕の感覚がなくなる。抗う術もなく、俺の体は弾き飛ばされた。
「大丈夫かい? まるで淑女のような反応だったが……。あぁ、立てないかい? 貸してごらん、手伝おう」
倒れ伏した俺の胸ぐらを軽々と掴み上げ、強制的に立たせた。その顔には、友人のような笑みで満ちている。
「……待ってくれ! 説明してくれ、いきなり何なんだ!」
状況が追いつかない。なぜ、さっきまで穏やかに話していたルーガディが、殺意すら感じる木槌を振り下ろしてくるのか。
「……貴公。この世界に"今からあなたを殺します"などという親切な合図があるとでも思っているのか?」
その問いに応えたのは、ルーガディの背後で腕を組んでいた、ローシャの声だった。その瞳には、甘えを許さぬ氷が宿っている。
「理屈を求める前に、身を守る術を覚えろ。死人に説明は不要だ。ルーガディ」
「もちろんだ。聞いたかい? 君の疑問は、この木槌を完璧にいなせた後に、ゆっくりとスープでも飲みながら聞こうじゃないか」
ルーガディは巨大な木槌を担ぎ直した。一振目に比べ筋躯が絞られていく。
ミリッ、――嫌な音が鳴る。
筋躯が目に見えて絞り込まれ、鋼のような密度へと変貌していく。それは、温厚な隣人が解体者へと変貌する合図だ。
「私を信じてくれないか? 君なら、致命打の速さでも――死なないはずだ」
音が、消えた。
ルーガディが踏み込んだ瞬間、視界から彼の巨躯が掻き消える。もはや速度の概念すら意味をなさない。
――刹那。
ガリウの貌がよぎり反射的に、俺の体は後ろへと跳んでいた。
生存のための本能が、思考よりも先に俺を突き動かす。だが、そのわずかな後退すら、ルーガディの間合いだった。
「――っが、あ!!」
後退する最中に盾をわずかに傾け、衝撃を後ろに逃がす。
回避の途上、逃げ場のない空中で激突した。
衝撃を殺しきれず、俺の体は枯れ葉のように後方へと吹っ飛ぶ。
背中から地面を転がり肺の空気が強制的に排気された。
思考が巡る。
偶然か、無意識に体現したのか、その問いに答える暇をこの監獄の教育は与えてくれない。
「いい反応だよ、だが命のやり取りは影の如く迫りくるぞ」
木槌を掲げるルーガディ、倒れ伏し呼吸すらままならない。
俺の頭上に逃げ場のない垂直の一撃を、振り下ろそうとしていた。
だが、俺は既に血と汗に濡れた手で。
砂を深く掴んでいた。
「――っらあ!!」
掴んだ砂をルーガディ顔面へ叩きつける。
不意を突かれ、彼の端正な眉がわずかに跳ねた。
その一瞬の隙。
俺は地を這うような低さで身を捩る。
「あんたの献身、分かりやすかったよ。振り下ろす。息を止めるこの瞬間だ!」
吐き捨てると同時に、
全体重を乗せて薄い鉄盾を
水平に振り抜いた。
狙いは振り下ろしの重圧を支える、
ルーガディの軸足。
ガチンッ、と硬質な衝撃
親方の教え通り一点集中。
鋼の如き筋躯を盾の縁で
叩き切るように打ち据えた。
影が落ちる。死を確信させる恐怖が重力に従い垂直に加速する。
巨大な木槌の軌道が、ミリ単位で俺の鼻先からズレる。
空を切る暴力。地を砕く轟音その直撃を回避した。俺は泥を舐めながら横転し、その勢いのまま跳ね起きた。
無防備になった体勢を崩した
ルーガディの驚愕に染まる顔。
横面に体重を乗せ鉄盾を叩き込んだ。鉄の塊が、ルーガディの頬を硬く。鋭く打ち据えた。
ガァン。
――乾いた鈍い音。それと同時に砂埃と静寂が訓練場を支配した。
俺の左腕には岩を殴ったような痺れが残っている。
ゆっくりと。ルーガディが顔を正面に戻す、口の端から垂れる一筋の血。
だが、その瞳に宿っていたのは、怒りでも殺意でもなかった。それは、成長を目の当たりにした歓喜だった。
「素晴らしい……。 痛みの中に正解を見出す、その執念! 君はまさに、この世界に相応しい適応を持っている!」
喜びに震えるルーガディの背後。ずっと腕を組んで静観していたローシャが、一歩、前へ踏み出した。
その氷のような瞳が、わずかに細められる。それは、獲物を眺める目から、初めて『戦士』の端くれを認めた者の目への変化。
「……見事」
短く、吐き捨てるような肯定。だが、その一言には、先ほどまでの冷徹な突き放しを拭い去るほどの、確かな重みがあった。
「満身創痍、命まで追い込まれ、ようやく成長したか」
ローシャの視線の先に映るのは、鼻は砕かれ、手に血を滲ませ、全身に無数の傷を負い、震える足で立っている戦士だった。
「やれば出来るじゃねぇか。まぁオレッチの子分なら当たり前か」
訓練場の扉から、煤と油の匂いを漂わせて親方が姿を現した。
親方が胸を張った直後。背後の影が揺らぎ、そこから音もなくミラーラが染み出すように現れた。
ミラーラは親方の存在など視界に入っていないかのように、細い指先で肩を無造作に弾いた。親方は前のめりに肺の空気を吐き出しながら転がる。
ミラーラは俺の前に立つと、透き通った、けれど底の知れない瞳で、俺の負った無数の傷を検分するように凝視した。
「……激しすぎる鼓動、紫に沈んだ打撲痕、肉の綻び。身体の規律が乱れきっている。無茶するわね」
ルーガディは一歩後ろに下がり、俺の背中を優しく押してくれた。ローシャは小さな咳払いして、俺を見据えた。
「貴公に良い知らせと悪い知らせがある。心して聞くがよい。良い知らせは貴公の名を皆で考えた。今この場で授けよう」
名前? 俺に……。ガリウに家畜のように扱われ、尊厳を奪われてきた俺に、この人たちは『人』としての証をくれるというのか。
「《ハミトン・ローゼ》。この世界のある英雄譚に出てくる名だな」
熱くなったものが目元に溢れた。監獄の冷たい床の上で、初めて自分の居場所を見つけた、この世界で孤独だった俺が家族として受け入れられた。
「あ……ありがとう……俺に名前っ……ありがとう」
震える声で感謝を絞り出した、その直後だった。ローシャの瞳はやはり、無機質なままだった。
「悪い知らせは日が七つ落ちる時、貴公の処刑が決まった」




