奇才の講習
俺を揺り起こしたのは、激痛だった。
体の奥が悲鳴を上げている気がした。
決意だけで耐えられるのは、昨夜までだった。それでも、いつもの朝日が通路の隅に差し込む。
この痛みは、ガリウに砕かれた、あの夜から始まっていたのだ。
深夜の長い回廊。
無惨に転がる獲物を見限るように、ガリウは立ち去ろうとしていた。
その前に、老兵が静かに立ち塞がる。
「これはこれは、聖王国ヴァレンタインの《雷光騎士》ローシャ殿ではないか」
ガリウは面白い玩具に口角を歪め、行く手を阻むローシャを睨み据えた。その瞳には、暴力の余熱がギラついている。
「その名は、とうに戦場へ置いてきた。《戦鬼》ガリウ。貴公も、血煙の戦場よりも、椅子の座り心地の方が良くなったか?」
静かな毒に、ガリウの瞳の奥で暴力の余熱が一段と色付く。
「……監獄長。我らに監獄内を好きに使わせよ。あの異世界からの来訪者を戦士にしてみせよう」
ローシャの声は、冷たく微動だにしない。ガリウは鼻で笑う。
「あの異邦人にか? 時間を捨てるだけだ。あんな柔い屑肉、音すら不快だ」
ローシャは一歩も引かず、その目に宿る光を一段と鋭くした。
「我は神託を受けた。あの来訪者は、この世界の根幹を揺るがす"救世主"となる男だ。使命により我もここ監獄に志願したのだ」
静寂の回廊に場違いに響く。
動きが止まった。一瞬の沈黙の後、ガリウの口角が歪に吊り上がる。
「救世主だと? ……クハハッ、今宵は良い見世物が揃った。この家畜小屋に救世主とはな!」
ガリウは狂気を含んだ笑い声を上げ、ローシャの眼前まで迫り見据える。
「面白い、やってみろ。貴様がその"救世主"とやらを、どう料理するか……宴の主席で見せてもらう。極上の獲物に仕上げておけ」
その夜、狂気に満ちた笑い声が監獄の深層で響いていたことを、俺は知る由もない。
「起きたか。皆、貴公を待ちわびている。支度を済ませよ」
ローシャは苦痛にのたうち回る俺を、いつもと変わらぬ瞳で、見下ろし音もなく立ち上がる。
開かれた鉄扉が、暗い口を開けて待ち構えている。
起床を告げる不快な重低音が響くことはなかった。昨日まで縛り付けていたはずの、監獄のルールが、音もなく崩れ去ってた。
ローシャが音もなく歩き出す。
痛む体を引きずりながら、その背中を追うしかない。
「これから鉱山で貴公の体を叩き直すわけだが、道中。我の武勇伝を聞かせよう。向上心を養うには、良き手本が必要であろう」
声色から僅かだが、自慢げに、どこか楽しさを含ませたローシャの横から、革のドーム帽に黄色スカーフが映える親方が割り込んだ。
「よぉ子分。ジジイが監獄長に交渉して監獄内の自由に出来る権利を得たらしいぞ、この状況が最初から予測出来てたんだろ。食えないジジイだ」
親方はローシャを見上げ鼻を鳴らし、歩幅に合わせドスドス歩く。
「……鉱山の作業場はまだ先だが?」
「ジジイは話が長いんだよ。オレッチが言い聞かせてやる、行くぞ子分」
ローシャの教養より、親方の現実的な話のほうが今は欲しかった。天秤にかけるまでもなく、親方の背を追った。
「待たれよ。 我の武勇伝の話がまだ始まってすら、―― おらぬ! おのれ。
《ゴルド・ドリュ》!」
温めていた台本を奪われた老兵が背後で、情けない声を上げるのを無視し、鉱山へ足を進めた。
魔鉱石のランタンを灯して、ツルハシを担ぎ鉱山内を進む。
「目的なんぞ知らん、だが都合がいいだろ? オレッチ、ミラーラ、ルーガディ、ジジイが叩き直してやる」
作業場に着くなり、鉱山内の岩壁を自らの爪で"ガツン"と岩を砕いた。
「いいか子分! ヨチヨチ歩きのツルハシなんて捨てろ、岩を殴れ!」
……嘘だろ。
足元に転がった、重い岩の塊を虚ろな目で見つめた。
「無茶だ。俺に硬い爪はない、拳が砕けます」
心の底から出た言葉だった。親方は動きを止め、信じられないものを見るような目で凝視した。
「……そうか。子分は土竜じゃねぇのか」
……この土竜、本気で自分の種族基準で指導を始めようとしていたのか。
ガリガリと硬そうな頭を掻くと、使い古しのツルハシを強引に押し付けた。
「いいか? 力で叩くんじゃねえ、ツルハシの重みを岩の一点に落とせ。背筋をピンと張って腰で打ち抜け。その壁に穴を穿つ瞬間、全体の力を一点集中させんだよ」
鼻をヒスヒスと小刻みに鳴らし、岩壁のあちこちに耳を寄せるようにして、一点を指差した。
教わった通り、ツルハシの重みを乗せて一点を振り抜いた。
――カァァンッ!
高い音が反響し、強烈な衝撃が指先を駆け抜ける。掌の皮が裂け、血が滲んだ。
「力じゃねぇと言ったはずだ。背筋、腰、一点集中。その全てを寸分違わず繋げなきゃ、この岩壁は、傷一つ付かねぇぞ」
「……これで本当に強くなれるんですか?」
切実な問いに、そのクリクリとした瞳を瞬かせ、数秒前と同じく一点の曇りもない顔で俺を見つめる。
その時、足元の岩盤が砂粒ほどに微かに震えた。反響した音の奥で、何かがこちらを覗いた気がした。
親方の鼻が、ピクリと不自然に跳ねる。先程までの呆れ顔が消え、その全身が、湿った岩壁に溶け込むような静寂をまとった。
手から、ツルハシが音もなく奪われる。
「今日はここまでだ。図書室に行け、ミラーラが待ってる。」
何が起きたのか。問い返そうとした言葉を、親方は「行け」という、刃のような短い拒絶で遮った。
親方に促され泥と血にまみれた体を引きずり、体を洗い流し身なりを整える。
重厚な扉を開け、監獄の図書室へ足を踏み入れた。図書室の奥、降り注ぐ淡い光の中に美術品は収まっていた。
黒檀の机に向かう姿は、まるで教会に捧げられた一枚の絵画のように静謐だった。
ミラーラは手元で羽ペンを走らせ、優雅な弧を描きながら羊皮紙をなぞっていく。
「いらっしゃい、坊や」
筆を置き、顔を上げた微笑みは聖母のような優しさに満ちていた。古い羊皮紙と木材の香りが、張り詰めた意識を優しく解きほぐしていく。
「さて。今日はこの世界の理……"魔法"について教えるわね」
羽ペンを走らせ、真っ白な羊皮紙に四つの円を描いた。
「基本は四属性。火、水、風、地。それぞれ初級、中級、上級の段階があり、そこから派生して補助や回復といった祈りに似た術が生まれるわ。……魔法とは、世界を再定義するための言語なの」
ミラーラは語りながら、俺の様子を観察していた。慈しむような視線の中に、時折、反応を待つ研究者のような鋭さが混じる。
「体の中に魔力値が存在するの、これには種族差があって、適正のある術式に反応して魔力を燃焼し、言葉で再定義させて魔法を構築出来るのよ」
情報量の多さと単語の羅列に目眩がする。親方のツルハシの方が、この頭痛よりは理解できた。
「さあ、まずは坊やの声を聞かせてみて。火は危ないから、この水差しを的にして"イドロ"と。零れる滴をイメージして」
言われるままに、掌に意識を集中させた。昨夜の痛み、親方の教え、そして沸き立つ感情を火種に変えようとする。だが――。
「……っ、出せない。まるで、体の中の血が泥に変わったみたいだ」
ただひたすらに重苦しい、鉛を流し込まれたような圧迫感だけが腕を支配している。
その様子を、研究者は記録し、羊皮紙を黒く埋めていく。
「……おそらく魔力値への無反応ではなく、過剰な密度による出力不全。魔力は体の容器に水を湛えている。でも坊やのは樹液みたいな粘度がある。」
ミラーラは黒檀の机の前をうつむき加減に何度も往復し始めた。
コツ、コツ、と一定のリズムで鳴る足音は、未知の真理へと辿り着くための音に聞こえた。
「――普通の方法では、力は出口を失い、いずれ内側から自身を押し潰してしまうわ。既存の詠唱も、魔導回路も、この粘度には対応していない……」
突如、背後の巨大な書架へと歩みを止めた。棚の奥から古ぼけた、だが異様な重厚さを放つ一冊を引き抜いた。
開いたページは呼吸と同じくらい自然に流れていく。
「……見つけたわ。かつて禁忌として放棄された、"定義祈檻"」
「肉体という脆い器を捨て、強固な鋼を檻として、その荒ぶる魔力を再定義する」
「奇跡を……物理的に閉じ込める――禁術」
俺がそこに座っていることすら忘れたかのように、低く呟いた。
「……ふふ、やっぱり。私の見立て通り、とても素敵な"神秘の賜物"ね」
――俺を見ていない。
狂ったように踊るそのペン先が、俺の死を、綴っているようだった。




