監獄長の訪問
食堂から早足で居房に帰ってきた。
まだ胸の奥に、形を持った熱のような物が渦巻いている。
ローシャの姿は見えないが、今はその不在さえ都合が良かった。
反芻する記憶はいつの間にか熱を帯び、居房の闇の中で一人、演説を再演していた。
あの一瞬、確かにあの空間は俺のものだった。
暗い居房の壁を見つめながら食堂での出来事を思い返し、口元が勝手に緩んでいた。
「……あの時間、あの場所は、俺が世界の主役だったんだ」
独り言が冷たい石壁に反響して消える。
この幸福が少なくとも明日までは、俺の体温を繋ぎ止めてくれる。
そう思いながら、静かな満足に浸っていた。
ザッ、ザッ、ザッ。
その悦楽を乾いた重厚な響きが断ち切った。
石床を叩く靴の音は一人のものではない。
先頭を行く正確な足音に合わせ、背後に控える複数の看守たちが、寸分狂わぬ間隔で軍靴を鳴らしている。
統制された行進音は居房の空気を一瞬で凍りつかせた。
音は房の前でピタリと止まった。
金属が噛み合う無機質な音が響き、鉄扉が重々しく押し開かれる。
立っていたのは月光に照らされ輪郭さえも冷徹に、生物としての温度を感じさせない切り出された影。
彫像のように直立不動で控える看守たち。
背後の巨躯の看守らのような威圧的な体躯ではない。
制服越しでも伝わるその肉体はしなやかに、一切の贅肉を排し、鋼の密度を詰め込んだ機能美。
彫刻のように整った貌には規律を嘲笑う不敵な少年性が宿り、その瞳だけが、底知れぬ死の色を湛えていた。
額にある鈍色の角は他の看守と同じはずなのに、別の生き物のように見える。
「持て成し不要だ、私は《ガリウ・イチ》。ここリンプインの監獄長だ。詩人のアンコールを聴きにきた」
ガリウは物腰柔らかく、お忍びの貴族のような優雅さで歩を進める。
彼が放つのはあまりに清潔で鼻の奥がツンとする薬品の匂いと、乾ききらない血のような鉄の匂いが、洗い落としきれずに絡みついているみたいだ。
「食堂で皆を惹き付けるあの力……実に見事なものだった。私にもその"力"を見せてみろ」
穏やかな瞳に牧師のような眼差し。
俺がその言葉の真意を測りかねて硬直した――その刹那。
優雅に差し出されたはずの手が淀みなく俺の喉笛に食い込んだ。
ミシリッ。
喉の奥で何かが軋んだ。
視界が急速に火花を散らしながら暗転していく。
果実から水分を絞りだす、食事のように命を鷲掴みにする。
潰れかけた視界の奥で、わずかな光を拾う、眼前には涼しい中に反応を楽しむ無邪気な貌が潜んでいる。
周りに助けを求め視界の端を彷徨わせる――そこにあったのは冷たい石壁と、それ以上に冷徹な日常だった。
監獄長が振るう暴力を前にして、控える看守たちの眼には驚きも嫌悪も高揚感さえない。
何の変哲もない一日を消化するように、彼らの眼は淡々と俺の死に際を眺めていた。
「私から目を背けるのはガッカリだよ」
絞めあげる首から手を離す。
急いで生命を吸い上げる間際、肘を短く畳んだガリウから急に視界が覆われる。
ガキッ!
自分の頭蓋の中で乾いた枝が折れるような音が響いた。
鮮血が散る。
部屋に差し込む月光に照らされ反射する。
鼻の感覚が一瞬で消し飛び熱だけが急騰する。
鼻の下を雨水が垂れるように血がゆっくり流れ、口を伝いアゴ先まで水路を繋げる。
本能が防衛するように膝をつき、両手で感覚を喪失した鼻を覆う。
徐々に痛みが迫り上がり、鼻の奥を突き抜けた衝撃が強制的に涙を絞り出す。
鼻水と鼻血で呼吸が上手く出来ず、舌が微痙攣を起こし冷たい空気が喉をひりつかせる。
「期待を裏切る脆弱さだ、これが異邦人? お前は殻から出たことがないのか?」
そんな姿など気にも留めず、髪を掴み立ち上げる。
ガリウの瞳には慈悲など感じられなかった。
自分を楽しませる玩具が動かなく、音が出なくなり不服そうな傲慢な顔付きだ。
「質量が雫ほど、何より牙も角も持ち合わせてない。殺されるのに抗うことなき生物など興を削ぐ」
掴んでいた髪を離し崩れ落ちる体を蹴りとばす。
ドカッ!
壁に打ち付けられ体が反響する。
一瞬の空白。
すぐさま景色は火花が爆ぜた。
景色が白く霞み、残った痛覚さえ闇が塗り潰した。
短い雑音が辺りを散らす。
ボンヤリした景色の中に入ってきたのは、異形の輪郭を持った――ローシャだった。
意識が覚醒していくにつれ体中に激痛が走り、痛みにのけ反り顔をあげる。
ベリッと音をたて、頬には乾いた血が貼り付いていた。
記憶は鼻を砕いた先にあるガリウの冷徹な瞳を掘り起こした。
恐怖に駆られ傷ついた全身を庇うように身をすくめ、小さく震えながら石壁の隅で自分以外の世界を拒絶した。
ローシャは隅で震える俺を見下ろすことなく、励ますことなく近づく。
「誰の仕業かなど知る必要ない。貴公は今後どうしたい?」
危害を加える事のない言葉さえ振り払うように咽び、呻いた。
「ここで殻に籠るなら、この先は虐げられる弱者に成り下がるぞ」
目の前に立ち尽くすローシャは無機質な瞳でこちらを見下ろす。
だが、先ほどの恐怖が頭から離れない……声は届いているのに、何を言われているのか分からない。
「その震え、その無防備さ。この監獄では、それは"獲物"という合図だ」
声音に一切の温度が消えた。
「我とて、いつ貴公の喉笛を食い破るか分からぬぞ。この地で獲物は"どうぞ料理してくれ"という招待状に等しい」
その言葉が終わるより早くローシャの長い指が胸ぐらを掴んだ。
悲鳴を上げる間もなく体は冷たい石壁から無理やり引き剥がされる。
思考するよりも先に手を払い、渾身の力で突き飛ばした。
しかし手応えは皆無だった。
大岩を突いたような無慈悲な反動。
ふらついた足取りは体勢を崩し無様に後ずさる。
この世界の住民でない俺の面倒を見てくれたローシャは、今は害を成す敵にしか見えない。
獣のように吠え、全身の関節が軋むのも構わず全体重を預けた渾身の右拳を、心臓に目掛けて叩きつける。
ローシャは軽やかに左でいなし鳩尾に膝をメリ込ませた。
返す刀で頭を鷲掴みにし壁に打ち付ける。
俺は頭蓋を固定する食い込む指を両手で引き離そうとするが、深く突き刺さった杭だ。
一人では外すことさえ叶わない絶望。
だが、諦めることもなかった。
言葉を押し潰すほどに奥歯を噛み締め、唸りをあげる。
自分を追い込む暴力に精根尽きるその時まで──俺は対峙し抵抗を続ける。
ローシャは正面から瞳を射抜き淡々と告げた。
「珠の肌から、牙が生えたか」
その言葉を最後に、意識は深い闇へと沈んでいった。




