第52話 西上の狼煙
「善光寺までわざわざ行ったと思ったら、今度は三河か。
北へ南へ、どこへ行こうが勝手だが、殿様は本当に戦う気があるのかね。……とな」
仏堂前の広場の片隅に立つ、サルスベリの樹。
その鮮やかなピンク色に目をやりながら、俺はこれ見よがしに溜息をついた。
上杉家との同盟に絡み、善光寺平を御料地として帝に献上する案。
やはりと言うべきか、重臣たちの反発は大きかった。
武田家が滅亡する歴史を俺から聞かされている信繁さんや勘助さんでさえもだ。
舵を大きく切り替えなければ同じ道を辿りかねないと理解しつつ、それでも不満を口にした。
今の時代に生きる者たちにとって、土地こそが力の源だ。
多くの血を流して得た土地を手放すなんて、とんでもないという意見である。
「何たる事! 兄上、その者たちの顔を覚えておられますでしょうか?」
「待て、待て。まだ続きがあるのだ」
だが、俺は現代の資本主義の中で育った人間だ。
土地を持っていなくても米は買えることを知っているし、善光寺平を失っても痛くないほど、武田家が数多の金山を所有していることも知っている。
武田家の途方もないゴールドラッシュぶりを知った時、俺は驚愕すると同時に、こう思わざるを得なかった。
なぜ、晴信は金山が生む豊富な資金を活かして商人を誘致するなど、経済政策を行わなかったのか、と。
開墾や治水など土地開発に懸命だったことに比べ、経済活動を軽視している、と。
もし経済政策を重視していたなら、商人の行き来は増えただろう。
甲斐や信濃の平野の少なさによる石高の少なさも問題にならず、甲府や諏訪などの街は、今より大きく栄えていたはずだ。
「三河では、手を結んでいる今川様の土地で略奪は駄目なんだろ?
お偉いさんたちはそれでも褒美をもらえるから良いけど……。
俺たちは張り合いがないというか……。命を張る価値があるのかね?」
しかし、仕方ない。価値観の違いだ。
信繁さん曰く、金儲けは下賤な行為であり、武士として恥ずべきものという価値観もあるらしい。
道に関しても同じことだ。
俺にとって、道はインフラの基本である。
国を豊かにしようと考えるなら、まず交通の便を最優先で整えるべきなのだ。
「ぐぐぐっ!」
「そう猛るな。落ち着け」
だから、俺はこれらの考えを噛み砕き、反発する重臣たちの前でこう説いた。
大きな石高が潜在的に見込めても、安定して得られず、紛争の種になっている土地など持っていても無意味どころか、害悪でしかない。
それなら、善光寺平を帝に献上して上杉家との緩衝地とし、安全を買った方が断然に良い。
朝廷の覚えも今以上に目出度くなり、武田家の名は天下に知れ渡る。
さらに、善光寺はあらゆる仏教の聖地だ。
善光寺平が御料地になれば、騒がしい都からの避難先として公家たちが訪れるようになる。
そうなれば、公家たちを目当てにした商人も訪れ、その道中に金が落ち、甲斐と信濃は自然と豊かになっていく。
そのためにも、道の整備は欠かせない。
商人たちが都から、駿河から、相模から、越後から訪れるようになれば、善光寺平で得られるはずだった米なども簡単に手に入るようになる。
「いいえ、我慢なりません!
この私が、その者たちを今すぐにでも叩き斬ってみせましょう!」
「落ち着けと言っている」
「ですがっ!」
ただし、経済成長が目に見えて実感できるようになるまでには、十年単位の長い時間がかかる。
重臣たちは晴信の威光の前では納得したものの、即効性がないため懐疑的だった。
特に、武田家の全てが甲斐一辺倒だった昔の栄光を忘れられない甲斐の家臣たちは顕著である。
彼らの卑怯なところは、俺に対する文句を勝頼の名前で広め、同意を得ようとする点にある。
まさに今述べたボヤきが、それそのものだ。
そのような噂は、武田家の忍者たちによって拾われ、俺の元へ届けられている。
「むしろ、儂は安心した。
上杉との戦いに肩透かしを喰らいながら、そんな軽口が叩けるくらい士気を保っているのだからな」
つまり、これは『知っているんだぞ』と釘を刺すためのパフォーマンスである。
もちろん、信繁さんが憤っているのも、打ち合わせどおりの演技だ。
普段は温厚な信繁さんが珍しく怒気を発しただけに、その効果は覿面に現れた。
「それに、彼らの言い分も理解できぬわけではない。
田植えの後すぐに駆り出され、稲刈りまでに帰れるかと思いきや、冬を他国で越す可能性まで出てきたのだ。
これで愚痴の一つも出てこなかったらおかしい。
苦労に見合うだけの見返りを求めるのは、至極当然のことだ」
だが、残念ながら顔を青ざめたり俯いたりしているのは、いずれも小物ばかりだった。
義信の時も同じだったが、その声の大きさから判断すれば、中心人物は間違いなく重臣の誰かである。
さすがに尻尾をそう簡単には出してくれない。
「だから、儂は宣言しよう。安心しろと……。
そして、ここから先は……。勝頼、お前の出番だ」
もっとも、今は上洛の第一歩という大事な時。
不和を無駄に招くわけにはいかない。
今回の釘刺しはここで止め、苦笑いを漏らしながら右隣に立つ勝頼の肩を軽く叩き、後ろへ一歩下がる。
「ええっ!? わ、私がですか?」
「無論だ。武田の当主はお前であって、儂はお前の相談役に過ぎん」
勝頼は、出番が自分に回ってくるとは思っていなかったらしい。
目をギョッと見開き、勢いよく顔を振り向けた。
「上杉輝虎は儂の因縁だ。
お前だけでは足りない部分がどうしてもあって、ここまでは儂が出張った。
だが、ここから先は当主たるお前の出番だ」
しかも、俺に聞こえるほどの大きさで、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「わ、解りました。で、では……。」
その様子に、少し心配になったが、それは杞憂だった。
勝頼は目の前に集まった者たちをグルリと見渡すと、その目には力強さが宿り、横顔には凛々しさが漂っていた。
晴信の子だけあって、顔は俺に似ているが、俺が十代の頃とは大違いだ。
立ち姿から感じる頼もしさは、比較にならないほどである。
あと足りないのは、場数を踏んだ経験と、そこから得られる自信か。
今はまだ俺の顔色をうかがい、背中に隠れたがる面は拭えないが、心配は無用だ。
この俺でさえ、一端の支配者面を演じられているのだから、勝頼も三年もすれば、立派な武田家当主として成長しているに違いない。
「全将兵に告げる! 今川殿を助けて、三河を攻めるのは事実だ!
だが、これは天下を欺く策! 我らが攻めるは南ではなく、西にあり! 敵は美濃、斉藤家だ!」
まだ肩の荷は完全には下ろせないが、俺の前途はきっと明るい。
腕を組み、勝頼が激を勇ましく飛ばす若武者ぶりに、俺は笑みを零しつつ、ウンウンと頷いた。




