第50話 義、その秤
「そうだ。北条家の誤りは、帝と幕府を軽んじたところにある。
今は戦国の世……。鎌倉公方や関東管領にその資格がないと判断し、これに挑むこと自体は構わない」
俺は息を深くつき、静かに頷いた。
向かい風が頬を撫でる。
犀川の両岸に布陣していた武田家と上杉家の軍勢のざわめきは、いつの間にか収まっていた。
「だが、北条家は勝てば勝ちっぱなしだった。
勝者としての義務を疎かにし、所持する官位は相模守と左京大夫の二つのみ。
これでは関東が治まるはずがない」
続いて、今度は溜息を深くつき、顔を左右に振った。
「帝と義輝様に謁見し、その大領にふさわしい官位と官職を得るべきだったのだ」
「然り然り、信玄様の仰る通り。
義輝様も、先代様も、そのまた先々代様も上洛を促しておられるというのに、いずれも梨の礫。北条家は、いったい何を考えているのやら」
藤孝殿の見事なアシストが入る。
機は熟した。
懐に忍ばせていた書状を取り出し、振り返る。
封書の中に折り畳まれていたそれを、背から吹き抜ける風に乗せて翻した。
「よって、儂はここに提案する!
すでに結ばれている甲相駿の三国同盟……。そこに上杉殿の越後を加えた、東国同盟の締結を!」
「と、東国同盟っ!?」
上杉輝虎と藤孝殿が、驚愕に異口同音で叫ぶ。
無理もない。
これほど巨大な一勢力が東国に存在した例は、戦国時代以前にまで遡らねばならない。
だが、ここまで重ねてきた俺の説得の意味を正しく理解しているなら、これは千載一遇の好機だ。
東国にとどまらず、日本全体の戦国の世そのものを終わらせるという夢を、現実へと大きく近づける一手なのだから。
今しがた挙げた北条家の欠点も、これで解決する。
関東管領となった上杉輝虎と手を結ぶことで、北条家は『関東の統治を一任されている』という、揺るぎない大義名分を得られるのだ。
「この書は、北条幻庵殿と共にまとめ上げた、東国同盟に関する腹案だ」
ただし、それもこれも、すべては上杉輝虎次第だ。
北条家に対するわだかまりを捨て、自らが関東の大名たちに放った『北条家討伐』の檄文。
その関東管領としての面子が潰れることを、受け入れなければならない。
だが、上杉輝虎の弱点は正義感にある。
彼は北条家討伐以上に上洛を強く望んでいる。
その機会がここにあると気づきさえすれば、必ず食いついてくる。
俺には、そう確信できるだけの手応えがあった。
「み、見せてくだされ!」
案の定、上杉輝虎は右手を伸ばしてきた。
それもこちらが歩み寄る間もなく駆け寄り、今にも俺の手から書状をひったくりそうな、必死の形相で。
「上杉殿、断言しよう……。
北条家の統治は、すでに四代を数えている。
貴殿が春日山にあって、いかに関東の平穏を叫ぼうとも、それだけでは何も変わらない」
この東国同盟の最も優れた点は、天下を我が物にしようという野心を抱く者が一人もいないところだ。
上杉輝虎は言うまでもないし、俺自身も天下などという面倒事は真っ平御免である。
北条家もまた、初代以来その視線は一貫して西ではなく東に向けられてきた。
今川家を継いだ今川氏真に、仮に野心があったとしても、それを成し遂げるだけの器量が無い。
俺の知る歴史とは違い、武田家は甲相駿の三国同盟を破棄せず支援も続けているため、三河の松平家とは辛うじて拮抗した戦を保っている。
しかし、それを独力で打開できず、武田家を頼ってきた時点で察するべきだろう。
「本気で関東を治める覚悟があるのなら、貴殿は居城を関東へ移さねばならない。
……それも一代や二代では足りない。
北条の影響力が完全に薄れるまで、貴殿のみならず次代、次々代……。最低でも四代、五代にわたってだ」
唯一の懸念は、まだ若い勝頼だ。
だが、諏訪の方の育て方が良かったのだろう。
義信ほどではないにせよ、勝頼もまた正義感が強い。
さらに真田幸隆と真田昌幸という二人を傍に置いている。
生来の性格をねじ曲げるほどの出来事でも起こらない限り、致命的な道を踏み外すことはないだろう
「先ほども申したが、民にとって北条家の支配は、この世の極楽と言うべきものだ。
貴殿が春日山へ帰るたび、民は北条の兵を歓迎して城へ引き入れる。
城を取っては取り返され、取り返してはまた失う。
そんな無益な争いを、延々と繰り返すことになるのは火を見るよりも明らかだ」
書状に記されている内容は、実に簡単なものだった。
北条家が上杉家との停戦、あるいは同盟を結ぶ意思を持っていること。
具体的な条件としては、互いの境界線をどこに引くか、その程度に触れているだけだ。
それ以外に書かれているのは、当主同士が直接会って話し合いたい、という一文のみ。
日時も場所も記されていない。
一度読めば、それで十分な内容だった。
「それに……。仮に関東が治まったとしてもだ。
中央が乱れていては、何の意味も無い。
関東の平穏など、ちょっとしたきっかけで、あっという間に吹き飛ぶ」
しかし、上杉輝虎は手渡した書状を、無言のまま食い入るように見つめていた。
最初から最後まで目を通しては、再び冒頭へ。
その視線は忙しなく、何度も紙面を往復している。
彼の隣に立ちながら、俺は堪えきれない笑みをニヤリと零し、ここぞとばかりに、駄目押しの一言を加えた。
「選択を誤ってはならない。
東国同盟……。これこそが、百年にわたる戦乱の世を終わらせる絶好の機会だ」
次の瞬間、歴史は大きく動く。
それがどれほどの意味を持つかを知っているのは、俺一人だけだ。
神の所業としか言いようのない選択を、自分の手で成してしまった。
その強烈な禁忌感と、抗いがたい達成感が入り混じり、心がゾクゾクと震えて止まらなかった。




