第44話 緊張と柔らかさの狭間で
「まだか……。」
陣幕に一人、緊張を気兼ねなく露わにして待つ。
今や、右足どころか左足まで震え、床几に座るこの場所だけが局地的な大地震状態だ。
先ほど、試しに立ち上がって歩いてみたが、案の定だった。
酒を飲んでいないのに千鳥足で、七歩目で膝がカクンと折れ、そのまま無様に前のめりに倒れてしまった。
右足の震えが止まらないと分かった時点で、勝頼たちを追い出して本当に正解だった。
もう少し遅れていたら、無様な姿を晒す結果になっていただろう。
「まだか、まだか……。」
余談だが、勝頼はまだ結婚しておらず、婚約者もいない。
さらに言えば、由布がその方面に潔癖なため、武田家クラスの大名の男子なら当たり前のように持つ妾も、勝頼にはいなかった。
つまり、勝頼はまだ童貞である。
その初々しさが今回は上手く事を運ばせてくれたが、ハニートラップはいつ、どこに潜んでいるか分からない。
勝頼の立場や今後のことを考えれば、早急な解決が必要だろう。
だが、それを悩む余裕はない。
今は、何が何でも緊張を収め、上杉輝虎との会談に臨まねばならない。
「大殿! 高坂昌信にございます!」
「入れ!」
ようやく待ちに待った声が陣幕の外から聞こえた。
震える両膝を上から両手で押さえ込み、平静を必死に装った。
「済まん。お前も忙しいだろうに」
「いえ。お呼びとあらば即参上。大殿のためなら火の中、水の中、犬馬の労を厭いません」
「そうか、頼もしいことだ」
「……して、拙者に何用でしょうか?」
よほど急いで駆けつけたのだろう。
陣幕の中へ歩み入り、俺の一歩手前で右拳を突いて跪いた肩は、激しく上下に揺れていた。
長い髪を束ねてオールバックにした前髪は、一房だけが垂れ、伏せた顔の顎先からは汗が滴り落ちていた。
「うむ、おっぱいを揉ませてくれ」
これほど急いで駆けつけてくれた忠臣に、こんなことを言っていいのだろうかと、一瞬逡巡した。
相変わらずの美青年ぶりを目にしつつも、上杉輝虎との会談は刻一刻と迫っている。
躊躇いは一瞬で切り捨て、ここへ呼び寄せた目的を単刀直入に告げた。
「御意! ……えっ!? い、今、何と?」
高坂昌信は即座に俺の願いを一旦了承したが、伏せていた顔を跳ね上げ、目をパチパチと瞬かせた。
「頼む! おっぱいを揉ませてくれ!」
「えっ!? えっ!? えっ!? えぇぇ~~~……。」
俺が頭を深々と下げ、二度目の懇願をすると、高坂昌信は右、左、後ろの順に顔を次々と振り向けた。
正面に戻ってきた顔は、信じられないと言わんばかりに引きつっていた。
大至急に来いと言われ、どんな緊急事態かと全力で駆けつけてみれば、『おっぱいを揉ませろ』と言われる。
誰だって、怒りを覚えるのは当然だ。
しかし、もう俺にはこの手段に頼るしかなかった。
有史以来、男を奮い立たせるのは女である。
男は女の前で格好をつけたがり、女のためなら命懸けにもなれる。
要するに、おっぱいの柔らかさを堪能し、凝り固まった緊張を柔らかく解きほぐそうという作戦である。
「椿、この通りだ! おっぱいを揉ませてくれ!」
俺は高坂昌信の目の前で正座し、そのまま土下座を敢行した。
「え、ええっと……。こ、ここで?」
「ここで!」
「……い、今?」
「今!」
「な、何故っ!?」
呼び名を主君と家臣の関係ではなく、男と女の関係で使ったせいか。
高坂昌信改め、椿は、一瞬だけ受け入れてくれそうな気配を見せたが、辺りをキョロキョロと見渡してごね始めた。
陣幕は四方に張ってあるとはいえ、薄布一枚。天井もない。
視界は遮られていても、聞き耳を立てれば丸聞こえだ。
陣幕の外には万を超える兵士がいるのだから、嫌がるのは当然である。
だが、武田家の未来は今や椿のおっぱいにかかっている。
謝罪も事情の説明も後回しにし、今はおっぱいを是が非でも揉ませてもらう。
「頼む! 揉ませてくれ!」
その断固たる意思を胸に、椿が到着する前に何度も入念に行った脳内シミュレーション通り、土下座の体勢から素早く椿に抱きついた。
「キャっ!?」
驚いた椿が悲鳴をあげるが、ここで怯んではいけない。
その隙を突き、身を捩りながら胸を隠そうと交差させた両手の手首を取り、強引に開かせると、そのまま全力でのしかかり、押し倒した。
あとはこちらの思うがまま。
椿のたわわに実った胸に顔を埋め、その柔らかさを存分に堪能するだけだ。
「……か、硬い」
しかし、俺は大事なことを忘れていた。
今、武田軍は万が一に備え、上杉輝虎との会談が無事に終わるまで全将兵が臨戦態勢中だ。
もちろん、それは高坂昌信である椿も同じ。
完全武装の甲冑姿で、その刃を防ぐために作られた胸当ては、とても、とても硬かった。
その程度のことは、椿を目の前にすれば一目瞭然である。
胸を揉むことばかりに集中して気づかなかった自分の度し難いバカさ加減に、頬擦りをピタリと止めて絶望した。
「わ、分かりました。わ、分かりましたから、落ち着いてください。
そ、それと鎧を脱ぐのを手伝ってください。そ、それくらいはお願いできますよね?」
そんな俺に同情したのか、椿は俺の背中を優しく叩いて諭した。
だが、その優しさが今は辛く、目に潤んだ涙が堪えきれず、ホロリと零れ落ちた。




