風林火山、揺れる胸のごとく
「え、ええっと……。さ、サラシも解いた方が良いですよね?」
俺と椿の関係は公然の秘密だが、一応は世を忍ばねばならない。
諏訪の屋敷を除けば、逢瀬の場所はいつも人目のないところを選び、こそこそと重ねるのが基本だ。
しかし、今はお天道様の下。
周囲を遮るのは、陣幕の薄い布一枚だけだ。
椿『高坂昌信』が急遽呼ばれたことは他の家臣にも伝わり、何人かが何事かと訪れていた。
だが、陣幕外の出入口に陣取る勝頼に遮られ、全員が立ち去っていく。
『さすがは大殿! 大事な会談前に凄ぇ!』と称賛しつつも、ここで何が行われているかはもう丸わかりだ。
そのせいか、椿はずっと俯いている。
脛当てを除いた甲冑を脱ぎ、着物もはだけたその上半身の肌は、桜色に染まっていた。
「モチのロン!」
その色っぽさに、もう耐えられなかった。
緊張を興奮で上書きする作戦は、見事に成功している。
椿のたわわな胸を包むサラシが、一重、また一重とほどかれていくたびに、俺の鼻息は荒く、フンフンと漏れた。
「あ、あの……。お、お待たせ致しました」
そして、待ちに待った瞬間が遂に訪れた。
サラシを解き終えた椿は、胸を両手で隠しながら、上目遣いで恥ずかしそうに俺を見上げた。
「椿!」
「キャっ!?」
その瞬間、俺の胸はズッキューンと高鳴り、気づけばもう椿を押し倒していた。
「ちょっ!? そ、そんな乱暴に……。んくっ……。ぁっ!?
い、痛っ!? も、もっと優しく……。ぃんっ!? や、優しく、お願いします……。」
ところが、である。
いくら揉もうが、いくら吸おうが、いくら摘もうが、俺の風林火山は『動かざること山のごとし』だ。
小さく小さく縮こまり、まるで真冬の猛吹雪が吹き荒ぶ極寒の只中にいるかのような情けなさ。
普段の『侵掠すること火のごとし』はどこへやら、言うことをちっとも聞こうとしない。
「うおおおおおおおおおおっ!?」
だったら、この荒い鼻息と高鳴る胸の鼓動は何だと言うのか。
今、間違いなく俺は興奮しているはずだと猛烈に頬擦りをしてみる。
だが、俺の風林火山は『徐なること林のごとし』であり、うんともすんとも言わない。
「お、大殿! やっ……。だ、駄目! こ、声が出ちゃうっ……。」
もはや、認めるしかなかった。
この荒い鼻息も、この高鳴る胸の鼓動も、スケベ心によるものではなく、すべてが緊張のせいだと。
それを自覚した途端、冷や汗が全身に噴き出した。
緊張を解きほぐす最後の手段すら潰え、どうすればいいのか分からなかった。
「うおっ!? うおっ!? うおおおおっ!?」
俺は小学校から大学まで、一度もリーダー的な役割を担ったことがなかった。
いや、積極的に避けていたのだ。
小さなリーダー的役割なら何度か推薦されたこともあるが、柄じゃないと理由をつけて逃げていた。
そんな俺が、武田家の未来と甲斐信濃に住むすべての者たちの未来を背負い、上杉輝虎と会談を行う。
自分の一言が百人どころか千人、いや数十万人にまで影響を及ぼすと思うと、今さらながら恐ろしくて、恐ろしくて仕方がなかった。
「も、もっと優しく……。も、もっと優しくっ……。ぁぅんっ……。」
今までは良かった。問題はなかった。
所詮、俺は影武者。
言い方は悪いが、信繁さんと勘助さんの操り人形に徹し、存在すること自体に意味があった。
武田家をより豊かに、より有利にするため、未来の知識を提案することはあっても、その是非を選ぶのは信繁さんと勘助さんだった。
しかし、今日は違う。
上杉輝虎との会談を提案したのは俺自身だ。
そして、それに反対する信繁さんと勘助さんを説き伏せたのも、俺自身だ。
「うおっ、うおお……。うおぉ……。」
これから行う会談の場に、信繁さんと勘助さんは居ない。
二人のサポートは受けられない。
要らぬ警戒心を与えず、外野からの余計な茶々を防ぐため、会談の場は俺と上杉輝虎、それぞれの付添人一人ずつで構成することにした。
さらに、立会人として藤孝殿を加え、合計五人での会談とすることにしたのも、俺自身だ。
緊張が不安を呼び、不安は弱気を呼び、弱気は絶望を呼んだ。
頭の中は、失敗前提のネガティブ思考に支配されていく。
「どうしよう? どうしよう?
椿、どうしよう? 俺、どうすれば良い?」
「……お、大殿?」
その結果、被っていた影武者の仮面は剥がれ落ちた。
椿の胸を見上げた顔に素の自分を曝け出してしまい、気づいた時にはもう遅かった。
椿は大きく見開いた目をパチパチと瞬きしている。
「ぁっ……。ぅっ……。ぃっ……。」
文字通り目の前でじっと見つめられ、一刻も早く誤魔化さねばと分かっていても、言葉がうまく出てこない。
「嬉しゅうございます!」
「……えっ!?」
だが、なぜか理由は分からない。奇跡が起こった。
椿はハッと息を飲むと、戸惑いで満ち溢れていた表情を一変させ、満面の笑顔を輝かせながら俺に抱きついた。
「でも、それならそうと仰ってくだされば……。えいっ!」
「ふぁっ!?」
そればかりか、俺の耳元に熱い吐息を吹きかけたかと思うと、右手を袴の中へ、腰の隙間から差し入れてきた。
今さっきまで、俺の要望を受け入れてくれてはいたものの、どちらかと言えば嫌がっていたのに、このサービス満点の豹変ぶり。
今度は俺が、目をギョッと見開いて戸惑う番だった。
「お任せを……。私が大殿の気を必ずや鎮めてみせます。
だから、大殿は私だけを見てください……。ねっ!?」
「う、うむ……。た、頼む……。」
ただ、『災い転じて福となす』とだけは分かった。
影武者とバレる絶体絶命の窮地を脱した安堵感は、上杉輝虎との会談を前にした緊張を、あっさりと吹き飛ばしてしまった。
椿の優しさに包まれ、俺の風林火山は『侵掠すること火のごとく』と猛り出した。
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「なぜ、人は争うのか……。なぜ、人は争わねばならないのか……。
ひとよひとよにひとみごろ……。富士山麓にオウム鳴く……。水兵、リーベ、僕の船……。」
袴の帯を結びながら、晴れ渡った夏の深い青空を見上げる。
紆余曲折はあったが、やはり俺の考えは間違っていなかった。
今、俺の心は大空のように青く、青く、どこまでも澄み渡っていた。
「父上、もう時間です! 早くしてください!」
「分かった! 今、行く!」
陣幕の外から勝頼が三度目の催促を轟かせるが、俺の心にはもはや焦りの影はなかった。
今の俺は賢者だ。
どんな苦難にも屈しない冴え渡る知恵がある。俺は無敵だ。
「……という訳だ。済まんな」
「いえ、ご武運を! ……けほっ! かほっ!」
心残りがあるとすれば、一つ。
身支度をまだ整えておらず、俺のせいで先ほどから激しく咽て、うがいを水筒の水で念入りに行っている椿を、この場に残さなければならないことだ。
絶望しきっていた俺を奮い立たせてくれた椿にこそ、勝利を掴み取るところをすぐ傍で見ていてほしかった。
しかし、付添人でない以上は連れて行けない。
「おう、吉報を待て!」
陣幕出入口の幕を叩いて跳ね除けると、背中から風を感じた。もう何も怖くはなかった。




