第23話 宴の毒
「やあやあ、貴殿らはいつも仲が良いな。どれ、私の酌も受けてはくれぬか?」
「無論です。喜んで頂きましょう」
俺はそう口では応じたものの、内心では舌打ちしたい気分だった。
山城に隣接する摂津を中心に、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨の七カ国にまで勢力を広げる、まさに現時点での戦国乱世の覇者。
あとは官位さえ得れば盤石と言われ、影では『副王』とまで称される、野心を隠そうともしない男『三好長慶』である。
応仁の乱を発端に続くこの戦国の世。
武家の棟梁たる征夷大将軍は都を追われることしばしばで、当代の義輝様も例外ではない。
今こそ京都へ返り咲いてはいるが、その義輝様を都落ちへと追いやった張本人こそ、他ならぬ三好長慶だ。
「はい、三好様に酌をして頂けるとは光栄です」
「それで? 何を話していたのだ?」
そう、義輝様が全国の大名に上洛を求めている裏には、この男の存在がある。
三好長慶は表向きこそ義輝様を支える姿勢を見せているが、気に入らぬものには容赦がない。
その背後には、圧倒的な武力がある。
何事も三好長慶の承諾を得ねば動かないのが今の京都である。
山城周辺の大名は言うまでもなく、室町幕府の重臣でさえ、長慶の機嫌を損ねぬよう、その顔色を伺わずにはいられない。
「ええ、その……。シチューの件でして」
「はい。信玄様が今井殿に自慢されたそうで、どうしても一度味わってみたい、と」
ところが、その三好長慶は、晴信という男にだけは並々ならぬ警戒を抱いていた。
武田家と三好家を比べれば、所領の広さこそ互角といってよい。
だが、そこに住まう人口も、米の石高も、金の収入も、あらゆる点で三好家のほうが圧倒的に勝っている。それにもかかわらず、である。
「しちゅー? ……ああ、あれか。
ふん、あんなもの大した代物ではないぞ。私はあの独特の臭みがどうにも好かん」
どうやら晴信の知名度は、俺が思っていた以上らしい。
過去、三度に渡る川中島の合戦。
景虎との北信濃の奪い合いはとりわけ有名で、庶民ですら大半がその名を知っているほどだ。
武家や公家の間では言うまでもなく、なんと帝でさえ謁見すれば、晴信を指して『あの』と呼ぶほどだった。
「確かに、南蛮渡りの香草が使われておりますゆえ、好みは分かれましょうね」
「ほう、藤孝殿は詳しいのだな。
だが、これは知っているか? あの汁には、牛が使われているのだぞ?」
御所と二条城を日々行き来していると、それを否応なく実感する。
歩いている最中、妙な視線を浴びることが多々あり、周囲をちらりと窺えば、こちらを見ながら数人がヒソヒソと何やら密談中。
そして、俺と目が合った途端、井戸端会議をしていた彼らは慌てて四方に散っていく。
最初は、ただの物珍しさゆえだと思っていた。
しかし、一向に収まる気配が無い。
そこで、それとなく彼らを探ってみた結果、実に馬鹿馬鹿しくも、下らない事実が判明したのである。
「……らしいですね。私も後になってから知りまして」
「では、武田殿は今知ったわけだ。
つまり、もう口にはできない、ということになるのか」
俺たち一行が京に屋敷を借りたのは、あくまで旅の都合にすぎない。
桜が咲く頃には甲斐へ戻ると公言もしている。
だが、彼らはまるで別の意味に受け取っていた。
近い将来、俺と手を結び、義信が大軍を率いて上洛する時に備えているに違いない。
その下準備として、数年にわたる長期滞在を目論んでいる、と。
まったく、勝手なことを言いやがる。
「はてさて……。それは、どういう意味でしょうか?」
「牛など口にするとは……。帝への反逆だぞ?
それとも何か? 武田殿には、その覚悟でもあるのか?」
その勝手な思い込みの筆頭が、目の前の男、三好長慶である。
俺が京へ到着したその日、長慶は讃岐の城にいたらしいが、何を焦ったのか、翌日の夕刻にはもう京にいた。
初対面の時から、口を開けば嫌味をねちねち、ちくちくと吐き散らすばかり。
『自分に取って代わろうとしているに違いない』と疑心暗鬼になり、勝手に敵愾心を募らせてゆくのだから、堪ったものではない。
「ま、まあまあ! きょ、今日は祝いの日ですぞ!
お、御二人とも、まだ酒が進んでおらぬようで……。わ、私の酌をどうぞ!」
それでも、俺は耐えた。
どれほど嫌味を浴びせられようとも、笑顔で聞き流した。
時には鼻息が荒くなるほど腹の底が煮え立ったこともあったが、そこは必死に押し殺した。
『これが、権力を持った者が患うという難病か……。』と自分に言い聞かせ、歯を食いしばって堪え続けた。
「おい、注ぎすぎだ」
「おっとっと!」
事実、俺以外の相手に対しても、三好長慶は常に疑心暗鬼に晒されているのだろう。
『副王』などと影で称されてはいながら、俺が彼に抱いた第一印象は『病人』だった。
頬はこけ、骨ばった輪郭が目立つ。
目の下には深いクマが刻まれ、顔色はいつも冴えなかった。
とても七カ国を治める覇者とは思えない。
そこまでして権力にすがりついて、果たして日々は楽しいのかと、思わず首をかしげてしまう。
その点、たまに厄介な難題が降ってくることはあれど、基本的には気楽に過ごせる影武者という身分は、やはり最高だと言わざるを得ない。
「ところで、武田殿は先ほどまで女を連れておったな。あれは奥方か?
甲斐は京から遠く、山中に在ると聞くが、なかなかの美人。京の女にも負けておらぬな」
「あれは側仕えで、北信濃の者にございます」
今日も、聞き流していれば問題はない。
顎先をわずかに動かして頷き、不安げな眼差しを揺らす藤孝殿に、安心しろと合図を送る。
せっかくの祭りを、最後の最後で台無しにするわけにはいかない。
賑やかさは変わらぬままだが、皆の視線が少しずつこちらに集まり始めているのを感じ、心の中で何度も『平常心、平常心』と唱える。
「ほう……。では、どうであろう?
今も申したが、あれほどの美人は京にもなかなかおらん。私にくれぬか?」
しかし、三好長慶が頬をニンマリと吊り上げ、下卑た笑みを浮かべたその瞬間。
俺の頭は真っ白に染まった。
藤孝殿が息を飲み、賑やかだった場が一瞬にして静まり返る。
「み、三好様! う、宴の席とはいえ、冗談が過ぎます!」
「冗談などではない。側仕えなら問題はあるまい。
まあ、どうしても惜しいと言うのなら……。一夜だけでも構わんぞ?」
間近で、獣の雄叫びが轟いた。
ありったけの怒りを込めたその叫びは、慟哭のようにも聞こえ、ふと俺は、家族を目の前で喪ったあの日の自分を思い出した。




