第22話 揺れる将軍の影
「本年も無事に勅祭を終えることができた。……では、乾杯!」
義輝様の高らかな掛け声に合わせ、皆が一斉に盃を掲げる。
酒を口に含んだその瞬間まで漂っていた厳粛な空気はたちまちほどけ、場には華やいだ熱気が広がっていった。
ここは、御所の南南西に鎮座する石清水八幡宮。
今日は帝から勅使を迎える勅祭『石清水祭』の日であり、今はその大切な儀式を終えた後の祝宴の最中だ。
今、俺は猛烈に感動していた。
義輝様の招きのおかげで、祭りを特等席で最初から最後まで見物。
さらに本来は一般には公開されない最後の秘儀にまで立ち会えたのだから、感動せずにいられるわけがない。
「ぷっはぁぁ~~~っ!」
昂ぶった気分そのままに、今日の酒はひときわ美味い。
一杯目など瞬く間に喉を通り過ぎ、胸の奥まで灼けつくような熱が満ちていく。
それを味わっていると、満面の笑みを浮かべた藤孝殿が、酒瓶を片手にこちらへと歩み寄ってきた。
「実に見事な飲みっぷり。さあさあ、もう一杯」
「おお、これはすまん」
「いえいえ」
断る理由など、どこにもない。
俺は盃に酒がなみなみと満たされるのを静かに待ち、そのまま勢いよく一息に呷る。
芳醇な香りが鼻を抜けていくのを感じつつ、今度は返杯のために盃を藤孝殿へと差し出した。
「ならば、藤孝殿も」
「これは、これは……。おっとっと……。」
そして、自分の膳の脇に置かれた酒瓶を手に取り、注ぎ口を傾けながら軽く目礼をする。
ここには多くの人の視線があるため、この程度の形でしか感謝を示せない。
だが、もし二人きりで立場を忘れられるのなら、平伏してでも感謝を伝えたい。それほど今の俺は藤孝殿に心から感謝していた。
「今日は、本当に感謝している。
まさか、秘儀まで拝見できるとは、思ってもみなかった」
俺は、ここまで特別待遇を受けるほど義輝様と親しい関係を築けているわけではない。
上洛してから約一か月が経ち、二条城には有力者との面談のために二日と空けずに通っている。
しかし、義輝様と言葉を交わしたのは、最初の謁見を含めてもたった四度に過ぎない。
いずれも、当たり障りのない世間話ばかりだった。
「いえ、私は口添えを少ししただけです。
信玄様をお誘いしたのは、義輝様でございます」
いや、招待自体はもともと用意されていたのかもしれない。
だが、今のような特別待遇が受けられるとは到底思えない。
本来なら、室町幕府の重臣や西日本の大名たちが最前列と二列目を占め、俺は三列目か四列目に座るのが当然だったはずだ。
「ふっ……。なら、そういうことにしておこう」
「ええ、そういうことです」
それを取り計らったのは、藤孝殿しかいないだろう。
もちろん、俺と義輝様の距離を縮めようという思惑もあったのだろう。
しかし、俺が神道に強い関心を抱き、この祭りを心から楽しみにしていたことを知っているのは、桃や信君、護衛の者たちを除けば。藤孝殿くらいしかいない。
「だが、この信玄。恩は決して忘れぬ。それだけは覚えておけ」
「はい、もちろんです」
今、京都で寝泊まりしている屋敷も、藤孝殿が手配してくれたものだ。
これから季節は冬を迎え、旅の間に心を和ませてくれた大自然は、逆に旅の障害となる。
さらに、京都で知己を得る目的もあって、上洛が決まった当初から俺たちは半年ほど滞在するつもりだった。
だが、護衛を含めれば一行は大所帯で、馬もいる。
半年もの宿暮らしとなれば費用もかさむため、護衛たちが暮らせて馬屋もあり、なおかつ御所にできるだけ近い借家を早急に見つける必要があった。
それを、藤孝殿はあっさりと解決してくれたのだから、感謝するしかない。
「住まいの方は、なにか不便ありませぬか?」
「はっはっはっ! 大丈夫だ、大丈夫。何も問題はない。
会うたびに同じことを聞いてくるが……。藤孝殿は本当に心配性だな」
しかし、藤孝殿は恩をこれっぽっちも着せようとしない。
だからこそ、藤孝殿の期待に応えようと、義輝様との仲を深めようと努力はしているのだが、なかなか容易ではない。
ご存じの通り、義輝様は景虎から直筆の襖書きを受け取り、それを評定の間に飾るほど仲が良い。
聞けば、足りないのは誓いだけで、義兄弟と呼べるほどの関係らしいのだ。
「そうは申されても……。紹介した手前、やはり心配なのです」
「なら、一つだけ注文してもいいか?」
「どうぞどうぞ、何なりと」
だが、晴信と景虎の二人は犬猿の仲だ。
俺自身は特に感情を持っていないが、晴信の影武者である以上、その立場に倣わなければならない。
義輝様もその点をよく理解している。
甲斐の風土について尋ねたり、戦や内政の心得を熱心に聞いてくる一方で、信濃に関する話題はあからさまに避けていた。
一度、同席していた者が北信濃や川中島の戦いについて口にしたとき、義輝様は急に『厠へ行く』と言い出し、その日はそれっきり戻ってこなかった。
「南蛮の料理人を紹介して欲しいのだ」
「南蛮の……。料理人を、でございますか?」
これでは、仲を深めるのは無理だ。
胸の内をすべて語れとは言わないが、腹を割って話し合わなければ、仲は深まらない。
しかし、義輝様も今の関係に満足してはいないはずだ。
征夷大将軍としての権威は依然として巨大だが、応仁の乱以前とは比べものにならない。
所領も、京がある山城一国のみで、手元に置ける兵力も限られている。
その不足を補うために行われているのが、日本各地を治める大名たちへの上洛要請である。
室町幕府を守るためのこの計画は、三つの段階に分けられる。
「この前、今井宗久殿と茶を飲む機会があってな」
「おおっ……。堺の豪商と早くも誼を結ぶとは、さすがは信玄様です」
第一段階は、大名たちが京都まで出向き、義輝様と謁見することである。
それ自体が、征夷大将軍としての義輝様の正統性を認める行為となる。
謁見する大名の力が強ければ強いほど、また人数が多ければ多いほど、室町幕府の権威は天下に輝くことになる。
第二段階は、上洛した大名との関係を深め、いざという時に室町幕府を支えてくれる味方を作ることだ。
端的に言えば、ある大名が幕府にとって大きな障害となり、討伐令を天下へ発した際に、室町幕府と共に戦ってくれる同志を確保する、というわけである。
第三段階は、その同志が大軍を率いて上洛し、その武威によって反室町勢力に対する強力な抑止力となることだ。
だが、同志の領地が山城と接しているならともかく、間に国が一つでも挟まっていれば、その国々を屈服させる必要が生じる。
進路上の大名たちが『はい、どうぞ』と道を開けてくれるようなら、この世はそもそも戦国乱世になっていない。
「ふっふっ……。それでな。自慢をされたのだ」
「……自慢ですか?」
「うむ、シチューなる絶品の汁物を味わったと」
「しちゅー……。ああ、あれですか」
現在、武田家は第一段階に位置しているが、義信は非常に強い正義感を持つ男である。
たとえ俺と義輝様の仲が多少ぎくしゃくしたとしても、室町幕府の号令には応じる可能性が高い。
しかし、武田家が総力を挙げて動員は難しい。
どうしても景虎に対する備えを残しておかなければならず、その戦力を割くことになれば、山城まで軍勢を送り届けることは到底できない。
「おおっ! さすがだ! 藤孝殿も、もう食していたのか!」
「はい、豊前の大友家を訪れたときに一度だけ」
「どうだった! 宗久殿は味噌汁より深い味わいと言っていたが?」
もし武田家と長尾家が手を結ぶことができれば、状況は一変する。
南の今川家と東の北条家とは婚姻による同盟関係にあるため、後顧の憂いはない。
総戦力を西へ向けることが可能となり、第三段階へ進む芽がようやく生まれる。
「……深い、というより、重い味わいでございました。
旨味が幾重にも重なって、口の中に広がり続けるような……。
味噌汁や吸い物のような清らかさとは違い、ひと匙ですぐに体が温まるような、そんな料理でした」
恐らく、藤孝殿が望んでいるのはまさにそれだ。
当主が晴信であれば決して実現しない話だろうが、義信であれば、可能性は小さくとも、確かに望みがある。
もっとも、晴信の影武者である俺は、表向きは強く反対してみせねばならない。
だが、本音を言えば、生存率が格段に高まる長尾家との同盟は、諸手を挙げて歓迎したいところだ。
最終的に義信が決断したのなら、『致し方なし』と渋々応じる形を取りつつ、必要とあらば反発する家臣たちを説得するつもりでいる。
「ほう……。それは、ますます興味をそそられるな」
「ただ、私が南蛮の料理人を紹介しても良いものかと迷います」
「それは、どうしてだ?」
ただし、このシナリオを現実のものとするためには、義信がどう判断するか以前に、大前提がひとつある。
義輝様自身が強くそれを望み、武田家と長尾家のどちらにも肩入れできなくなり、個人的な友誼から両者の仲裁に熱心に取り組まねばならない、ということだ。
征夷大将軍としての義務感だけで同盟を結ばせても、何の意味もない。
「恐らく、今井殿は信玄様と誼を深めようと考えています。
だから、次の訪問時に、南蛮の料理人を伴うか、しちゅーを持参するのではないでしょうか?」
「そうなのか?」
下は上に倣うものだ。
義信と景虎の二人が心から同盟を受け入れなければ、家臣たちの互いへの敵愾心は燻り続け、いつどんなきっかけで再燃するか分からない。
そんな同盟では、仮初めに終わるのは目に見えている。
「はい、信玄様はなかなかの美食家でいらっしゃる。
知らない食べ物をちらりと自慢してみせれば、きっと食いつく。そう宗久殿は踏んだのでしょうな」
「ぐぬっ……。儂は上手く乗せられたというわけか」
しかし、どれほど周到に策を練ったところで、結局は俺と義輝様の仲が深まらなければ何も始まらない。
酒は人の距離を縮める道具、この宴も本来なら絶好の機会だ。
ところが、義輝様は酔いの勢いで余計なことを口にするのを嫌がったのか。
乾杯の音頭を取ったあと、俺と視線が合いそうになった途端、そそくさと席を離れ、今は武家の対面に座る公家どもと楽しげに談笑している。
本来なら武家の棟梁として、堂々と座して皆の酌を受けねばならない立場のはずなのに、である。
「やあやあ、貴殿らはいつも仲が良いな。どれ、私の酌も受けてはくれぬか?」
そんなことを思いながら藤孝殿と盃を重ねていると、よりによって、この場で一番顔を合わせたくない相手が声をかけてきた。




