6.陽介、一人になる
森をどれだけ走ったのか、陽介には分からなかった。息が苦しくなっても、足がもつれて転んでも、地面に手をついた瞬間にまた立ち上がって走った。小山が森の奥へ逃げるように叫び、陽介自身も必死に追うように走ったため、足は震え、もう立っている事すら難しくなっていた。
もう遠い。どれくらい離れたのかも分からない。しかし、陽介は一度も村の方を振り返らなかった。振り返る必要がない。
──いや、振り返る勇気がなかった。
あの方向には、小山が向き合った“何か”がいる。赤黒い口元と、人の形をした膨らみを抱えた化け物の姿が、目の奥に焼きついていて離れない。
陽介は木の根元に倒れ込むように座り込んだ。肩が勝手に上下し、喉が熱くて、呼吸が安定しない。汗か涙かわからないほど顔が濡れていた。手を見れば、何度転んだのか分からないほど土と細かい傷がついていた。
それを見た瞬間、小山の細い手が一瞬だけ頭をよぎった。
「……っ」
声が喉につかえて出なかった。小山の名を呼ぼうとしたが、声にならない。
もし名前を呼べば、“返事がない”という事実を突きつけられる気がして、陽介は唇を固く閉じた。陽介は腕で目を覆ったまま、夜になるまでその場を動けなかった。
陽介は夜明け前の森で、しばらく体を縮めたまま動けなかった。目を閉じても、まぶたの裏にあの異形が浮かぶ。小山が森の奥へ逃げていく姿も、今にも消えかけた声も、全部が耳の奥にこびりついたまま離れない。
太陽が木の隙間から細い光を落とし始めた頃、ようやく陽介は木に手をついて立ち上がった。足はまだ震えていて、土の上に置くだけで力が抜けそうだった。
『なんで…、なんで…』
言葉にする意味はなかった。ただ声を出していないと、何かに飲み込まれそうだった。歩き出したのは、最初の村とは反対の方向だった。どこへ行くかも分からない。
ただ“戻る”という選択肢だけは、陽介の中にはなかった。小山の家の方向は、もう陽介にとって“恐怖のある方角”だった。小山を思い出すのがつらすぎて、現実を見返す勇気もなかった。
足元の地面が柔らかく沈んで、靴に泥が貼りつく。陽介はそれを気にする余裕もなく、木々の間をひたすら進んだ。
一日、二日──陽介は道らしい道を探しながら歩き続けた。森の中で見つけた草をかじって吐き出し、酸っぱい実を口にして顔をしかめる。小山と採った草の形を思い出しながら、似ているものを探して摘む。
火は、小山がやっていた通りに枯れ枝を集めて挑戦した。摩擦で熱が出ても、なかなか火にはならず、煙だけが上がって陽介は何度もむせた。それでも、ふっと小さく火がついた瞬間、陽介は息を飲んで両手を引いた。
「……あ、ついた……」
小山に見せたかった。そんなことを思って、陽介は慌てて顔を下げた。火の傍で、草の根を炙って食べる。苦味と土の匂いが舌に残っても、それが体の中に入っていくたび、不思議と安心した。夜になると、陽介は火のそばに座り込んで膝を抱える。森の奥からは、葉擦れの音や、何かの足音がときどき聞こえてくる。
陽介はそのたび耳を澄ませ、何度も呼吸を止めていた。音がしなくなると、逆に怖かった。
「……小山……」
眠る前に、小山の名前をかすかに呼んでしまい、陽介は慌てて口を閉じた。
返事が返ってくるはずがない。分かっているのに、胸が締めつけられた。
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そんな日々が続いた三日目、森を抜けた先に、小さな村が見えた。高い柵はなく、家は土壁で、陽介と小山が過ごした村よりも古びて見えた。陽介は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
──ここなら、話を聞いてもらえるかもしれない。
村の入口に近づくと、人影が動いた。陽介に気づいた村人は、警戒するように距離を取りながら、ゆっくりと陽介を見た。
陽介は深く頭を下げた。「こんにちは」という言葉はまだうまく発音できず、声に出せたのはただの「こ……にち……」のような音だった。
村人たちは返事をしなかった。ただ、陽介の傷と汚れた服を見て、村人の表情は、一瞬だけ曇った。
陽介はその表情を見た途端、胸が詰まり、一歩後ろへ下がった。自分が迷惑をかけたのかもしれないと、考えるより早く体が引いてしまった。
陽介は、入口近くにいた別の村人に向けて、距離を保ったまま短い一文を絞り出した。
「……しごと……ある? てつだう……する……」
村人は陽介を一度だけ見たが、すぐに首を振り、短く「ない」とだけ言って、背を向けた。
その様子に、陽介はもう一言も出せなかった。“また迷惑をかけたのかもしれない”陽介の胸が重くなる。そして、陽介はそれ以上村に留まらなかった。背を向けて、村から離れた。方向はどこでもよかった。とにかく、“ここにはいられない”と心が判断していた。森に向かう足取りは重かったが、村へ戻るよりはずっとましだった。




