4.
陽介は男を見返しながら、一歩だけ前に出た。まだ距離はある。本当に近づいていいのか迷いは残っていたが、男の表情からは敵意らしいものは感じられなかった。
男は陽介を家へ入れようとするように体を動かしたが、陽介はそこで躊躇した。見知らぬ土地、見知らぬ人。警戒心が先に働くのは当然で、自分でも足が前に出ないのが分かった。
そんな陽介の戸惑いに気づいたのか、男はふわっと笑い、自分の胸に手を当てて短く何かを言った。
「……ショ……シャン」
陽介は聞き取れず、眉を寄せた。男はもう一度胸を指し、今度は少し区切るように発音する。その動作に合わせるように、陽介も胸に手を当てて復唱した。
「……ショ……サン?」
男は首を振り、同じ仕草を繰り返す。
「ショ、シャン。……ショウシャン」
三度、四度繰り返され、ようやく陽介はその音を掴んだ。
「……ショウシャン」
男──小山は、小さく息を吐きながらうなずいた。陽介もためらいながら胸に手を当て、名乗る。
「ヨウスケ」
小山はかすかに笑い、陽介の胸を指してもう一度その名を繰り返し、やわらかくうなずいた。そのうなずきは軽い動きなのに、どこかゆっくりしていて、陽介には疲れているのか、もともとそういう動作なのか判断がつかなかった。
小山は再び家の方へ指を向けた。
陽介は足元の土を踏みしめ、小さく息を吸い、家を覗く程度なら問題ないだろうと自分に言い聞かせながら、入口までゆっくり近づいた。
家の中は暗く、木の棚と壺がいくつか置かれているだけで、人が隠れていそうな気配はない。陽介が入口で様子をうかがうと、小山はその動きを見て、手のひらを下へ向けるように軽く動かし、“そのまま入れ”と伝えるような合図をした。
陽介は恐る恐る家の中に足を踏み入れた。小山も続いて入ってきたが、扉を閉めはしなかった。閉じ込める意図がないと分かって、陽介の肩から少し力が抜けた。
部屋の奥には簡素に畳まれた布の束と、石を組んだ小さなかまどがある。小山は壺から椀に水を注ぎ、それを陽介に差し出した。陽介は受け取る前に小山を見た。細い腕、慎重な動き、そして浅く見える呼吸。それらは「弱っている」という印象を与えたが、ただ村で暮らす誰もがさせ細っているように思えた。
「飲む、飲む」
小山は何度も手を口にやり、同じ単語を繰り返した。理解した陽介も単語を繰り返した。
「のむ」
小山はふんわり笑い、陽介に椀を渡した。喉が乾いていたので、陽介は椀を受け取り、ゆっくりと口に運んだ。小山も同じ量の水を自分の椀に注ぎ、隣で同じように飲み、陽介と目が合うと小さくうなずいた。その仕草は少しぎこちなかったが、どこか穏やかでもあった。陽介は深く緊張するわけでもなく、その場に座った。
夕日の光が家の隙間から細く差し込み、床を淡く照らしている。遠くでは村の生活音が小さく響き、その外側は風が木々を揺らす音だけがゆっくり続いていた。
家の中には危険な気配も、他の人の気配もない。ただ小山と陽介が、静かに向かい合っているだけだった。陽介は椀を置き、軽く頭を下げた。小山は目を細め、ゆっくりとうなずいて返した。
小山は椅子を指して、同じ単語を何度も言うが、陽介は理解できなかったけど、ニコッと笑って返事した。すると、小山は家を出ていった。薪割りを続けるようだった。
外が完全に暗くなる前、小山から、よく分からない薄い液体を渡された。椀に少しだけ入っていて、色はほとんどなく、水かと思ったが、表面がわずかに黄色く濁っている。
陽介が戸惑っていると、小山は自分の椀を軽く上げ、口をつけて見せた。飲んでいい、という意味らしい。陽介は椀を鼻に近づけた。強い匂いはなく、かすかに草のような香りがするだけだ。喉の乾きを確かめるように、少しだけ口をつけると、味はほとんどない。ただ、後からほんの少しだけ苦味が残った。
沈んでいた何かが唇に触れた感覚があり、陽介が首を傾げると、小山は手のひらで示すように「だいじょうぶ」と言いたげに、同じ液体を口に含んだ。
陽介はためらいながらその固形物を口に入れ、噛んでみた。歯に力を入れると、少しだけ野菜の味が滲む。
(……なんだろ。野菜っぽいけど、硬い)
しっかり味わうほど余裕はなかったが、飲み込めないほど不味いものではなかった。
陽介の反応を見て、小山は小さく息をつくように笑った。その笑い方はどこかふんわりしていて、陽介には“この人はこういう動作の人なんだ”と自然に受け止められた。
その夜は、床に敷かれた布を借りてそのまま寝ることになった。外の音は風と虫の声だけで、村の方からはほとんど音が聞こえなかった。薄暗い部屋に慣れないまま、陽介は眠りについた。
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朝。
鳥よりも先に、壁の隙間を抜ける細い風の音が耳に届いた。聞き慣れない音に陽介は目を開け、布から起き上がる。家の中はまだ薄暗く、外の光が弱い線のように差し込んでいる。扉の外から、木が割れる乾いた音がした。
陽介が外に出ると、小山が薪──なのか、丸太に近い木──を割っていた。細い体つきなのに、斧を両手で持って振り下ろしている。力任せではなく、道具の重さを使っているような動き方で、ひと振りごとに呼吸が浅くなるのが分かった。
陽介に気づくと、小山はふわっと笑い、斧を地面に下ろした。その仕草はどこか柔らかく、昨日と同じく争う気配がない。家の中に戻ると、昨夜と同じ鍋の中で何かが温められていた。
小山は椀に汁物を入れ、陽介に渡した。
色は茶色く濁っているが、昨日よりも香りが強い。陽介が一口食べると、昨夜のものよりコクがある気がした。噛むのに時間がかかる固いものがひとつ入っていて、口の中でゆっくりほぐすと、苦味とほんの少しの塩味が広がった。
(……ジャッキーかな?なんか、違う気がするけど、肉みたい)
陽介は特に表情を変えなかったが、小山は陽介の様子をじっと見て、安心したようにうなずいた。食べ終わると、小山は手で外を示し、陽介を連れて森へ向かった。小山が持っている籠には、昨日見た草や実と同じものがいくつか入っている。森に入ると、小山は地面にしゃがみこみ、指先で草をつまんで見せた。
「……これ」
陽介もしゃがみ、同じ草を指差す。
「これ?」
小山はうなずき、今度は抜いて見せる。
「とる。……これ、とる」
陽介は声に出して復唱した。
「とる。……これ、とる」
小山はほんの少し目を細め、笑ったように見えた。
そのあとも、「ここ」「ちがう」「ある」「ない」といった短い単語が、森の中で何度も繰り返された。陽介はただ、小山が指す方向や草の形を確認しながら、その都度同じ言葉を口にして覚えていった。
森に差し込む日の光が揺れ、風で草が揺れ、小山の声がその間に混ざり込む。山菜採りのような作業が続く中で、陽介は少しずつ、この世界の生活に触れていることを感じ始めていた。




