3.陽介、異世界にいるかも?
湿った土の冷たさが背中に広がっていた。
陽介は目を開け、上を向いたまましばらく動けずにいた。頭上には木の枝が伸び、その隙間から光が落ちている。日差しの角度からすると、昼に近い時間のようだ。
最後に覚えているのは、居酒屋の明かりだった。夜だったはずなのに、ここは明るい森だった。
陽介は地面に手をつき、ゆっくりと体を起こした。服の背中は濡れ、土のにおいが染みついている。周囲を見回しても、人の気配はなく、どの方向も似たような木々が続いている。
『……異世界?』
独り言のつもりだったが声が少し大きくて、陽介は周囲を確認した。もちろん誰もいない。一応という気持ちで、右手を前に出し、指先に意識を向ける。魔法を出すつもりで、軽く空気を払うように手を動かす。何も起きなかった。風も大地も動かないし、水や火が出る気配がない。
陽介はすぐに手を引っ込めると、耳のあたりに触れ、自分の顔が熱くなっているのを感じた。見られているわけではないのに、恥ずかしさが残った。初めての森歩きで、最初の一歩から躓きそうになる。地面は平らではなく、根が浅く張った木が多いため、足を上げて歩かなければいけない。
歩き続けると、呼吸が荒くなった。息を吐くたびに、口の中が少しずつ乾いていく。腹は減っていない。居酒屋で食べてから、それほど時間は経っていないはずだ。なのに、喉が乾いてくる。
木の幹を手で押しやりながら進むと、草が肩に当たるほど高く生えている場所に出た。服の裾が草に引っかかり、数歩歩くごとに足が止められる。背丈ほどの枝を掴んで草を払いながら進もうとしたが、枝が手の中でうまく固定されず、反動で陽介の腕に当たった。枝の先が頬をかすめ、細い痛みが走る。低い枝に腕を引っかけたときには、細い擦り傷がひとつ増えた。傷は浅いが、じんわりと熱を持つ。
靴の裏には泥が重なり、歩くたびにぬるりと吸い付くような音がする。足を取られるたびに、陽介は地面を見て歩幅を調整した。どれくらい歩いたのか分からない。森の中では時間の感覚が掴めない。空は見えるが、太陽の位置が木々の影で読みにくい。
小さく開けた場所に出たとき、赤い実がいくつか目に留まった。指でひとつつまみ、軽くかじる。酸味が一気に広がる。すぐに吐き出し、唇を拭った。別の木の実も試したが、渋くて食べられるものではない。舌の渋さが残り、余計に水がほしいと感じた。
音を頼りに水を探そうとしたが、川の流れる音は聞こえない。鳥の声と、風に揺れる枝の音だけがある。陽介は歩き続けた。
森の景色は変わらないように見えたが、少しずつ木々の密度が減り、光が地面に落ちる量が増えてきた。やがて、遠くに煙が上がっているのが見えた。陽介は足を止め、視線を凝らすと、木の向こうに屋根が並んでいるように見える。細い道のような土の筋もある。村だと思った。
陽介は速度を上げた。枝を避けるのが雑になり、頬や腕に細かい傷がさらに増える。それでも構わずに進んだ。
村に近づくと、人影が見えた。最初に目が合ったのは小さな子どもで、子どもは陽介を見るなり振り返り、近くの女性の服を掴んで後ろに隠れた。痩せた男性が鍬を持つ手を止めたまま、陽介をじっと見ている。老人は框に座り、陽介の服装を上から下までゆっくりと確認するように眺めた。
村人たちの視線が集まる中、陽介は一度深呼吸し、軽く姿勢を整えた。異世界転生について携帯小説で読んだ知識が頭のどこかに残っていた。陽介は少し声を張って言った。
『こんにちは!』
村人たちは一瞬だけ顔を見合わせた。だが、その後の反応は慎重だった。痩せた男は鍬を持つ手を少しだけ下げたが、近づこうとはしない。女性は子どもを庇うように後ろへ押しやった。
老人は目を細め、陽介の服装や傷を観察して、口を開いた。
「%%@#」
『何言っているんですか?』
「$&%%#」
『……え、英語、分かりますか?Hello. How are you?』
「%%#%#◎%×#」
言葉が通じていないことを理解した途端、無意識に足が一歩前に出た。男が鍬を持ち直し、顔し引き締めたように見える。これ以上近づくことができなかった。陽介は敵意がないことを示すためのに一度、小さく頭を下げたが、誰も反応しなかった。
追い払うわけではないが、「近寄るな」と「かわいそうだ」が同じくらいの距離で漂っていた。陽介はゆっくり下がり、人家の少ない方向へ歩き出した。村を振り返ると、人々はまだ、陽介を見つめていた。
暫く歩み続けると、小さくて傾いた家がひとつあった。その前で、ひとりの痩せた男性が薪を積んでいた。村人よりもさらに細く、腕や足が細い木の枝のように見える。
陽介に気づくと、男性は動きを止めて、陽介を観察するよう目を動かした。他の村人のように後ずさりもしないし、棒を手にする様子もない。ただ陽介の傷や、泥だらけの服を確認した。
陽介は立ち止まり、その場で待った。村では警戒されていたので、近づきすぎるのはよくないと思い、どう動いていいか分からなかった。
男は薪を足元に下ろすと、陽介のほうへ一歩だけ近づいた。ゆっくりとした動きで、手のひらを軽く上げ、指先をこちらへ向ける。
「%#%%」
その仕草は「こっちへ来い」と示しているように見えた。




