14.
通りに残った埃の匂いが、まだ薄く空気に混じっていた。陽介は壁に背中を預けたまま、肩を上下させて呼吸を押さえつけようとしていたが、胸の奥の震えが止まらず、影の中で手が小刻みに揺れていた。
青林と妖魔のぶつかる音は、まだ遠くで続いている。剣の金属音と、地面を引っかくような低い音が入り混じり、陽介の耳の奥に残ったまま離れなかった。
妖魔の尾が石畳を叩く音が響くと、陽介の喉が勝手に詰まり、足が地面を探るように動いた。影にしがみついているだけではいられなくて、陽介は壁を手で押して立ち上がったが、すぐには走り出せず、呼吸が大きく乱れた。通りの奥で妖魔がわずかにこちらへ顔を向けたように見えた。
その気配だけで、陽介の背中に冷たいものが走った。陽介は体をひねって裏路地へ向かい、足を強く踏み出した。石畳に靴が当たる音だけが響き、その音に反応して胸の震えがさらに強くなる。
逃げなきゃ、と頭のどこかで言葉が浮かぶたび、呼吸が吸うよりも早く漏れ、勢いだけで狭い道へ走りこんだ。
走り始めてすぐ、足元の“地面の形”がいつもより鮮明に伝わってきた。凹み、石の隙間、砂粒の位置までが、足裏ではなく足の“外側”に触れているような妙な感覚で、陽介は一度足をもつれさせ、壁に肩が当たった。
「……っ、は……に、げ……」
声を出そうとした瞬間、喉の奥で低い音が混じった。
自分の声が、自分の声じゃなかった。
息が強く漏れ、その音が胸の奥に響いた。驚いて立ち止まろうとしたが、足がいうことを聞かない。膝が沈むように曲がり、片手が地面に落ちた。指先に触れた石は冷たかったが、指はうまく曲がらず、手のひらではなく“爪”が先に地面をとらえた。
陽介は慌てて手を持ち上げようとしたが、手の形がいつも通りに見えない。黒い毛が、ほんの少し、見えた。視界がぐっと低くなる。目に入る地面が異様に近くて、石畳の端の欠けや、砂粒の影の落ち方まで、細かく見えた。呼吸が途切れるたび、喉の奥で短い低音が鳴る。
声を抑えようとしても、息が漏れるたびに違う音が混じった。
「……す、て…………っ」
言葉は出ているのに、勝手に唸り声の形を作り、陽介は自分の口元を抑えようとして両手を上げたつもりだった。だが上がったのは、太くなった前足のようなものだった。
爪が地面に触れ、石をかくような軽い音がした。何が起きているのか判断する余裕はなかった。腰の布が引かれるようにずれ、体の中心がわずかに前へ傾く。
立ち上がろうとした瞬間、二足での姿勢がぐらりと揺れ、重心が落ちて、陽介は本能のような勢いで四つん這いの姿勢になった。その姿勢の方が、嘘みたいに安定した。
地面の石の配置が手足に伝わり、どこに力をかければ速く動けるのかが、考える前に体へ流れ込んだ。
頭の奥に、森の草の匂いが突然押し寄せる。街の埃、土、鉄の匂い、その全部が濃すぎて、息を吸うたび喉の奥まで直接流れ込んできた。
陽介はもう立ち止まっていられず、後ろ足に力を入れた瞬間、体が前へ跳ねるように走り出した。四本で走ると、石畳の感触が波のように次々と足裏に流れ込み、風が耳の形に沿って滑り、遠くの音がクリアに聞こえた。青林の剣が空気を切る音、妖魔の爪が地面を叩く音、どれも鮮明だった。
「……っ、は……っ……」
言葉を出そうとしても、喉が震え、短い唸りが混ざる。それでも陽介は走るのを止めず、体が勝手に選んだ道へ逃げた。
人の足とは違うリズムで地面を叩き、影の間を滑るように駆け抜け、通りの裏から森へ続く細い道へ飛び込んだ。背中の毛が風を裂き、尾が左右に揺れ、足が石から土へ変わった瞬間、陽介は自分の体が何をしているのか分からないまま、恐怖に押されるように奥へ奥へ走り続けた。
森の入口の影に沈んだとき、陽介はようやく息を大きく吐いた。その息にも、低い声が混ざった。喉の形が変わっている感覚だけが、強く残っていた。
「……す、げ……」
その声は確かに自分の言葉だった。けれど、響きだけがまるで違っていた。
陽介は自分の足元を見ようとしたが、走る勢いは止まらず、体だけが暗い森中へ滑り込んでいく。四つの足音が地面で跳ね、闇の中へ消えていった。




