13.妖魔、再び
夕方の光が店の壁に薄く傾き、木箱の影が地面に長く伸びていた。陽介は店の外に積んであった箱を抱え、位置を変えようとゆっくり動かしていたが、通りの奥で突然上がった叫び声が、手を止めさせた。
声は短く、破れたように鋭く、風に乗ってこちらへ飛んできた。
「──妖魔!!」
叫びと同時にあたりの空気が少し沈み、通りにいた人々が一斉に走り始め、靴が土を蹴る音と、散り散りに逃げていく影の揺れが続いた。陽介は木箱を胸の前で抱えたまま、視線だけを声のほうへ向ける。遠くの地面に薄い土埃が舞い、その向こうで、低い姿勢の何かが揺れるように動いていた。
狼と思わせる顔と、ゴリラの体。蛇のようにくねくねした尾。
その形が視界に入った瞬間、陽介の指が箱の角でわずかに強張り、呼吸が胸の奥で止まった。
通りの角から、一人の影が現れた。青林だった。
鎧の肩当てに夕日の光が鈍く反射し、彼は周囲の人々の叫びにも振り返らず、陽介に気づくこともないまま、淡々と歩みを進め、腰の剣に手を掛けた。引き抜かれる際の金属の擦れる音が、静かに空気を切る。
妖魔が発した低い唸りは、風の音と混ざって形が掴めず、ただ地面の細かい砂がその振動に揺れていた。陽介の足は、音に押されたように後へ下がり、胸に抱えた箱が少し揺れた。
青林が地面を蹴って近づき、妖魔の頭部へ剣を振り下ろすと、硬いもの同士がぶつかる音が通りに響き、陽介の肩がその音に反応して跳ねた。
視界の端が揺れ、陰った建物の影が近づく。陽介は吸った息をうまく吐けず、荒くなる呼吸を抑えようとしながら、壁際に下がった。影が体を包むと、壁の冷たさがそのまま背中に伝わり、膝が勝手に折れた。
剣と妖魔がぶつかる音が何度も重なり、土埃が舞い上がって夕日の光の中を漂った。その埃の向こうに見える青林の鋭い動きと、あの日、自分の前で小山が逃げていった細い背中が重なり、陽介の喉が震えるように動いたが、声にはならなかった。
妖魔が屋根を踏みつぶして、飛び降りながら青林へと近づいた。青林は剣を横に大きく振り上げたが、刃が触れたように見えても、妖魔の体はびくともせず、むしろ押し返すように尾が地面を叩いた。
陽介には何が起きているのか分からず、どちらが優勢なのかも判断できなかった。ただ、ふたりの距離がじわりと変わっていくのが見えるたび、胸がきゅっと縮むように痛んだ。
退いた青林の背後には、人の家が数軒並んでいるだけで、援軍の気配はなかった。
妖魔の目が、わずかに陽介の方へ向いた。その瞬間、陽介の呼吸が完全に崩れ、胸が早く強く波打った。
逃げなければ──でも足が動かない。
陽介は体を縮め、揺れる呼吸を抑えようとしたが、指先の震えが止まらなかった。
青林と妖魔がぶつかる音が続く。
そのたびに陽介の視界は白く揺れ、森の光景が繰り返し頭の奥に落ちてきた。
小山が後ろを振り返ったときの、あの一瞬の顔。
陽介の足が地面を蹴れなかった、あの瞬間。
喉が鳴り、声にならない息が漏れた。
青林がひとりで抑えている限界が、陽介の目にも分かった。妖魔は倒れず、通りはもう安全とはいえない。影の中の陽介は、胸の震えを止められぬまま、逃げなければ、という焦りだけが体を強く押しはじめていた。




