表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影獣の王  作者: Kinoko
13/16

12.

 昼の客が帰り始めたあと、店の中に漂っていた熱が少しずつ抜けて、机の上に残っていた湯気が細く伸びていく。陽介は皿の裏にこびりついた粒を指先でそっと落とし、まとめた皿を両腕で抱えて厨房の奥まで運んだ。


 棚に置いた皿が重なって鳴らし、乾いた小さな音が背中の方まで響いた。その音のあとを追うようにして、春花が棚の拭き残しを確認しながら「それ片付けたら裏もお願いね」と短く声をかけてきた。陽介は「はい」と返し、濡れた布巾をもう一度しぼってから裏口の扉を押した。


 扉の向こうには、昼の陽射しが傾き始めて長く伸びた影が地面にかかっていて、風が細い草の葉を揺らしている。その影が水場の石に当たってかすかな形を変えていた。陽介は桶を持ち上げ、底に残った水を軽く振ってから地面に流した。木の香りがまだ残っている布巾で桶の縁を一度拭いた。水を組み直そうと桶の位置を動かしたとき、小石を踏む軽い音が裏道の方から跳ね返り、その音と一緒に、足の速い子どもが走る気配が近づいてきた。


「おにい!」

 声より先に顔が出てくるような勢いで、阿飛が陽介の横に滑り込んできた。汗で額が濡れ、手に持った細い枝を空に向けて振りながら、陽介の手元にある桶を覗き込む。


 陽介は布巾を軽く持ち直し、桶の中の薄い水の揺れを指先で追った。その瞬間、口元がほんのわずかに上がった。気づかれないほど小さく、すぐに元に戻るような動きだった。


「これ、洗う」

 とだけ言った。阿飛は「ふーん」と返事をし、枝で陽介の足元の土をつついた。桶の中に浮いた葉を指で跳ね飛ばそうとして、陽介に「あ、それおちる」と言われて手を引っ込めた。


「今日のご飯、おいしかったよ。お昼にもらったやつ。」阿飛が突然思い出したように言い、陽介は桶の底をこすりながら「よかった」と答えた。


 しばらく枝を振り回して遊んでいた阿飛は、通りのほうから呼ばれたのか、そちらを振り向き、陽介の様子を一度確かめてから「また来るね!」と手を振って走り去った。陽介は桶の縁に添えていた指を少しだけ緩め、力がふっと抜けたように見えた。


 陽介は桶に新しい水を入れ、その水の冷たさを掌で感じたあと、裏口の影の中に落ちていた薄い布袋を拾い上げて、店の裏でよく使う台の上に置いた。


 風が少し強くなり、通りの方で布地が擦れる音が聞こえた。陽介が顔を上げると、雑貨屋の前から大きな籠を抱えた女性が、こちらへ歩いてくるのが見えた。籠の中には布袋や小さな木の匙がいくつか揺れていて、歩くたびにカタカタと控えめに音を立てている。


「陽介」

 陽介が働く店の近くの雑貨屋を営む女性、阿芳は裏口の前で足を止め、籠を軽く下ろした。陽介は桶の水を少しこぼさないように置いてから、「こんにちは」と言い、背筋を伸ばしたまま阿芳のほうを向いた。


「おつかれ。これ、飲む? 気温が変わりやすいからね。」

 阿芳は腰にかけていた水筒を外し、陽介へ差し出した。布に包まれた金属の表面が陽介の手に触れた瞬間、冷たさが皮膚に伝わり、陽介は喉の渇きを思い出すようにして、水筒をほんの少し傾けて口に運んだ。ひと口飲んだだけなのに、胸の奥まで冷たさが流れ込んでくる。


「ありがとう。」

 陽介が返すと、阿芳は「どういたしまして」と言って籠の中を探り、端に置いてあった小さな布袋を取り出した。袋を開くと、手のひらに乗るくらいの芋がいくつか転がり出てきた。


「今日、少し余ったの。誰かにあげてもいいし、陽介くんが使ってもいいし。」

 阿芳が袋を差し出すと、陽介は両手で袋を受け取り、袋の重さをそっと確かめるように持ち直した。芋の形が布越しに伝わってきた。受け取るとき、陽介の胸の上下がほんの少しだけ深くなり、弱い風が通った拍子に、肩が静かに落ちた。


「貰ってもいいの?」

「いいよ。陽介くん、いつもがんばってるからね」

 阿芳はそう言って、陽介の手元に視線を落とした。陽介の指先に水が残っているのを見て、布巾を渡そうとしたが、陽介が手を軽く拭って「もう大丈夫」と言うと、阿芳は余計な言葉を足さず、そのまま籠を持ち上げた。陽介のほうに一度視線を向け、歩き出す前に軽く顎を上げて挨拶の代わりにした。


 阿芳が通りの方へ戻っていくと、籠の中の布袋が揺れて、小さな音が風の中に紛れた。陽介は受け取った芋の袋を水場の端に置き、再び桶の水を替えた。桶に水を注ぐと、水面に映った空の色が揺れた。


 裏口が開き、店主が顔を覗かせた。

「陽介、そろそろ閉めるよ。手が空いたら中もお願い」

「はい。」


 陽介は桶を伏せ、手についた水を軽く払ってから袋を持ち上げ、店の中へ戻った。扉が閉じると、外の風の音が遠くなり、店内の灯りの下で皿の白い縁が静かに光った。


 陽介は皿をひとつずつ棚に戻し、布巾を畳んで所定の場所に置き、手を軽くこすった。動作が終わるたび、木の棚が小さく鳴った。


 裏口の外から、夕方の風に混じって阿飛の高い笑い声がいっとき響き、すぐに聞こえない距離へ遠ざかっていった。


 陽介は芋の袋を持ったまま、一度だけ外のほうへ視線を向け、それから静かに皿の影が伸びる奥へ歩いていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ