11.
昼が過ぎ、店の中に響く声や食器の音が少しずつ薄れていった。暖かい湯気がまだ厨房に漂っていて、木の皿の縁に残った湿り気がゆっくり乾いていく。陽介は、木の盆に寄せられた皿をひとつずつ重ねていき、盆を胸に抱えて奥の水場へ運んだ。足元には昼の慌ただしさで落ちた小さな野菜片が残っており、陽介はそれを避けるように歩いた。
皿を置くと、陶器同士が軽い音を立てた。春花が棚を拭きながら、陽介のほうを一度見る。
「そのまま奥に置いといて。」
陽介は短く頷き、皿を棚の横に整えて並べた。重ねた皿の端が揃うように指で軽く押し、最後に手についた水を払った。裏口の扉がかすかに開いていて、細い風が入り込み、陽介の髪をゆらした。
外の光を一度確認してから、陽介は桶を取り、裏へ出た。建物の影が伸びており、通りを横切るようにかかった影の境目で光が揺れている。桶を持ち上げると、古い木がきしむような感触が手に伝わった。陽介が桶の中の水を捨てていると、軽く地面を叩くような足音が近づいてきた。
「おにい、今日も洗ってる。」
声が聞こえた瞬間、陽介の足がほんの一拍だけ止まった。振り向いたときには、10歳くらいの子供、阿飛が陽介の隣に立っていた。阿飛は汗をぬぐいながら、陽介が持つ桶を覗き込む。陽介は布巾をしぼり、桶の中を示した。
「うん。まだ、いっぱい。」
阿飛は陽介の手元をじっと観察していて、布巾の動きに合わせて体を揺らしていた。
「手、つかれないの?」
陽介は手を広げたり閉じたりし、手の中を見せるように軽く動かした。
「だいじょうぶ。なれてる。」
阿飛が桶の縁に手を置いたとき、水が跳ねて阿飛の袖にしみができた。
「うわっ。」
陽介は濡れた部分を指で示す。
「ぬれた。」
阿飛は袖を振って水を落とそうとしながら笑った。その仕草を見ていた陽介は止まっていた手を動かして、桶をこすり始めた。阿飛はふと思い出したように話し始めた。
「今日ね、おかあがいもくれたの。あとで食べる。」
陽介はこすっていた桶を軽く回しながら頷いた。
「いいな。おいも、すき。」
阿飛は陽介の横にさらに寄り、興味深そうに陽介の手元を見た。
「おにいもすきなの?」
「うん。甘い。美味しい。」
阿飛は胸を張って、得意げな表情を見せた。
「じゃあ、あした、ちょっとだけあげる。」
陽介は手を止めて阿飛を見た。阿飛の目はまっすぐで、渡す気満々だった。
「大丈夫。阿飛、全部た食べて。」
阿飛は唇を尖らせ、小さな足で地面を蹴るようにして言った。
「少しなら、いいでしょ?」
陽介は短く息を吸い、少し悩むように眉を動かしたあと、ゆっくり頷いた。
「……少し。うん。ありがとう」
その返事を聞くなり、阿飛は嬉しそうに笑い、すぐ近くの小石をつま先で転がした。
「じゃ、明日! 絶対だよ!」
そのまま小走りで通りの奥へ向かい、角を曲がる寸前、片手を大きく上げて振った。陽介はその手に合わせるように手を上げ、短く返した。風で袖が揺れ、さっき触れた冷たい水の感触がほんのわずかに残っていた。
陽介は桶に水を注ぎ直し、布巾をしっかりと絞った。店の窓から漏れる灯りが地面に柔らかく落ち、椅子の脚が机の下で揃って影を作っていた。通りのほうでは、家々の扉がひとつずつ閉まり、木の軋む音が断続的に響いていた。
裏口の扉が開き、春花が顔を出した。
「陽介、片付けの続きね。」
陽介は桶を伏せ、布巾をかけ直し、軽く手を払ってから店の中に入った。扉を閉めると、外の風の気配が小さく遠のいた。
棚の上には洗い終えた器がいくつか残っていて、陽介はひとつずつ布で拭き、棚に戻していく。器を重ねるたびに、木の棚がわずかに鳴った。最後の器を置き終えると、陽介はエプロンの紐を解き、巻きつけていた布巾を丁寧に畳んだ。
店内の灯りが揺れ、壁に映った影が短く震えた。陽介は調理場の隅に置いていた桶の位置を直し、指先で軽く縁を押して安定させると、そのまま奥へ向かって歩き出した。足音は静かで、木の床をそっと押すような感触だけが残った。




