10.
店で働くようになり、客同士の会話や春花の声を毎日聞くうちに、短い単語は少しずつ“文章”の形になり始めていた。
午前の光が差すころ、陽介は空いた皿を下げながら、入口で立っている近隣住民に声をかけた。
「席、こちら空いています。どうぞ座ってください」
客の肩がわずかに緩んだ。「ありがとう」と返され、陽介は胸の奥がじんと温かくなった。
春花もちらりと陽介を見て、小さく頷いた。
「ヨウスケ、“今日のスープ、お得ですよ”って言ってもいいよ。今日は具が多いから」
陽介は復唱する。
「……今日のスープ、お得です。どうですか?」
自分の声が、初めて“店員としての声”になった気がした。接客中、客に呼ばれた。
「りょうきん、これで合ってる?」
陽介は硬貨を見て、落ち着いて返した。
「はい、少し多いですね。こちら、お釣りです」
客は満足そうに笑い、料理が出てくるのを待った。陽介はその背中を見ながら、言葉が通じる嬉しさを噛みしめた。
昼過ぎ。
扉が開いた音が、店の空気をわずかに引き締めた。青林が入ってきた。今日も肩当てには薄い土埃が付き、袖は少し擦れていた。どこかで任務を終えたばかりのような雰囲気だった。
青林が店に入るだけで、騒がしかった客の声が少しだけ静かになるのが分かる。
青林を司会に入れないように、視線を避け、近くの席に座る人の背筋が少し伸ばし、笑い声が弱まる。
陽介は皿を持ったまま、その変化に気づいた。理由は分からない。ただ青林の周囲だけ、空気に糸が張っている気がした。
青林は誰も見ず、席に着いた。
陽介は深呼吸して、スープを運ぶ。
「青林さん、スープです。熱いので気をつけてください」
青林は視線を上げ、短く言った。
「……ありがとう」
その声は驚くほど普通で、陽介の胸の強張りが少し溶けた。陽介が戻ろうとしたとき、青林の低い声が背中に落ちた。
「……店、忙しいな」
陽介は振り返り、小さく笑う。
「はい。最近は旅の旅人が多いです」
青林はスープを掬いながら、短く息を吐いた。
「……避難しているからだ」
陽介は皿を胸に抱え、黙った。
青林は続けた。
「食べ物が少ない村が多い。畑も、狩りも、昔より取れなくなっている。さいがいも多い。安全な国に行くんだ」
陽介は顔を上げた。
「……そうなんですか」
青林は頷いた。
「それに……きじゅうが減っている。荷物を運ぶ獣も、人を乗せる獣も。今は、ほとんど残っていない」
陽介は僅かに眉を寄せた。言っていることを理解する事が難しかった。きじゅうとは何か?荷物を運ぶ獣も、人を乗せる獣の事か?それを見たことがない陽介には、想像もつかなかった。
青林は視線を落とし、淡々とした声で最後を言った。
「騎獣がいない村は、妖魔が出たら終わりだ。逃げられないんだ。……みんな死ぬ」
陽介の喉がきゅっと詰まった。妖魔──あの異形。ネズミの頭、蛇の胴、膨れた腹、血のついた口。そして、小山が叫んだ声。
陽介は皿を持つ手が震え、青林はそれに気づいた。しかし追及はしない。ただ静かに言った。
「……お前は、生き延びた。それだけで十分だ」
陽介はうつむき、かすかな声で返した。
「……運が良かっただけです」
青林は返事をせず、スープに視線を戻した。
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閉店後。
陽介は店の外で木箱を積み直しながら、ゆっくり空を見上げた。西のほうが赤く染まり、その色が町の土壁に淡く広がっている。
町の人々は、日が落ちきる前に店を閉め、戸を固く閉めて家へ戻っていく。明かりはほとんど使われないため、帰る時刻が自然に決まっているらしかった。
道を歩く人の数も、だんだん減っていった。生暖かい風が一度吹き抜け、陽介の頬を撫でた。
ふっと視線を上げると、
青林が町の外の道を、ゆっくり歩いていくところだった。大きな背中が、赤い空の下で静かに揺れている。誰も近づかない背中。けれど陽介には、その背中が不思議と安心するものに見えた。
陽介は、木箱に手を置いたまま小さく息を吐いた。
「……また来てくれたら、いいのに」
返事をする人はいない。
周囲はすでに静かで、家々の戸の閉まる音が、遠くでぽつりと響くだけだった。陽介は夕暮れの空をもう一度見上げ、そのまま店の扉を閉めた。
ただ静かな夕焼けの空気だけが残った。そして陽介は気づく。今日、自分は“文章を使って” 会話をした。
──はじめてだ。
そのことが、胸の奥にほんの小さな灯りのように残った。




