9.
青林は店にしばしば姿を見せる。
青林が扉を押して入る。ざわめきが止まるほどではないのに、話し声がほんの少し落ちる。笑っていた客の口が結ばれ、スプーンを持つ手が、空気を読むように一拍遅れる。
青林の近くに座る客たちは、視線をわざと外へ向けたり、いつもより姿勢を正して座っていた。陽介は皿を運ぶ動きを止めないまま、その変化にゆっくりと気づき始めた。
(……なんで……?青林さん、妖魔を倒すいい人なのに、なんで?)
言語では分からない。でも、空気が冷える瞬間だけは、陽介の肌が覚えてしまう。
小山の村で、人々が彼に向けていた“冷たい距離”とどことなく似ていた。
________________________________________
昼の混雑が落ち着くころ、春花は陽介に接客で使う新しい言葉を教えてくれた。
「ヨウスケ、これ“おつり”」
春花は両手で小さな銅貨をすくい上げて見せる。
「……おつり……」
陽介は口を真似して発音し、頷いた。
「そうそう。おかね、かえす。おつり」
次に、春花は今日の一番安い料理を指し、「これ、“やすい”。……おとく」陽介は皿を拭きながら繰り返した。
「やすい……おとく……」
「うん、いいよ。それから“サービス”。ただじゃない。……でも、ちょっとだけ、いいこと」
「……サービス」
「そう。“りょうきん”は……おかね、ぜんぶ。おきゃくさん“りょうきん、いくら?”って言うよ」
「……りょうきん……いくら……」
陽介は何度も声に出した。聞きなれない単語は、口に出さないとすぐに忘れてしまう。それでも単語が増えていくたび、この町に少しだけ馴染めるような気がした。
やりとりは単語ばかりだが、客の表情の変化は前より読みやすくなった。値段に納得している顔。量に不満を持った顔。遠くから来た疲れを隠せない顔。完璧ではない。
でも、前より分かる。
________________________________________
夕方近く、店の扉が静かに開いた。青林だった。鎧の肩当てに薄い砂埃がつき、袖が少し擦れている。戦ってきたのか、長い距離を歩いてきたのか、陽介には判断がつかなかった。けれど青林が席に腰掛けると、再び店内の音が小さくなったように感じた。
笑っていた客の声が少し弱まり、その場にいた旅人が青林を見ずにパンをちぎる。陽介はその微妙な変化に胸がざわついた。
(……まただ。青林さんが来ると……みんな……)
理由は分からない。言葉も足りない。けれど、避けられている“空気”だけは伝わる。
陽介は注文を聞きく、青林の席へ向かった。近づくと、青林の視線が横に動き、陽介に向けられた。
「……仕事はどうだ」
陽介は胸に手を当て、小さくうなずいた。
「うん。たのしい」
青林は短く息を吐くようにしてうなずき、スープを注文した。
皿を運ぶ陽介の手は、青林の前に立つと少しだけ震えた。それでも、陽介はいつも通り机に皿を置き、静かに頭を下げた。
青林はそれかた話すことなく、スープを飲み、硬いパンを噛む。
その横顔は、辛いのか、怖いのか、頼もしいのか、陽介には判断できなかった。ただ、胸の奥がきゅっと痛む。
小山の村に現れた異形。
あのときの恐怖は、夜に火のそばで目を閉じても、朝の冷たい風を吸い込んでも、陽介の体から完全には抜けなかった。
──ようま、妖魔。
あの単語を聞いた日から、青林を見かけるたび、陽介の胸は無意識に反応してしまう。
青林は、妖魔を倒す人。春花はそう言った。陽介が見た、あの異形──血に濡れた口元、蛇の胴、膨れ上がった腹。それを倒せる人。
陽介は皿を下げながら、青林の背中をちらりと見た。
(……こわい…………でも……)
陽介の胸はゆっくりと締めつけられるような、押し出されるような感覚で満たされていった。
“恐ろしい”のか、
“頼もしい”のか。
まだ答えは見つからなかった。




