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影獣の王  作者: Kinoko
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15.陽介は人間じゃない?

走り抜けた勢いがようやく落ち着き、陽介は根の盛り上がった木のそばで足を止めた。四つ足でしがみつくようにして呼吸を整えると、胸の中へ空気が深く流れ込むたびに、喉が勝手に震えて低い声が漏れた。その声を止めようとしても、息を抑えるたびに別の音が混ざり、陽介はそのたびに目を伏せ、地面の形だけを見つめ続けた。


落ち着こうと一度ゆっくり立ち上がろうとしたが、二足での姿勢はぐらつき、背に重みが残っているせいか、体が前に引かれてしまう。仕方なく四足に戻ると、土の凹凸が手足に均等に伝わり、その姿勢のほうが安定していた。


陽介はしばらくそのまま動かず、目の前の草と土の境目を見ていたが、腹の奥がじわりと空っぽになっていく感覚だけは無視できなかった。


腹が鳴った。


低く長い音で、体中に響いた。


陽介は顔を上げ、地面が斜面へ移り変わっていて。四つ足で歩くと、草の触れる感触が肩や脇腹に伝わり、足先が地面に触れるたびに土の湿りが細かく伝わった。


川の音がわずかに聞こえる。水の匂いが風に乗って鼻の奥まで届くと、陽介の足が自然とそちらへ向かった。川辺に着くと、水の流れが月の光を薄く映し、石の間で跳ねる水の冷たさが鼻先だけで分かった。


陽介は川の表面にいる魚を見つけ、体を低くして近づいた。魚影は素早く揺れ、陽介が手を伸ばすより早く流れの奥へ消えた。爪の伸びた手では水の中を掬う動きがうまく作れず、もう一度伸ばしても、水面が跳ねるだけだった。三度目には爪が石に当たって弾かれ、手首に小さな痛みが走り、陽介はその場で動きを止めた。流れの中で、魚は距離を保ちながら向こう側に留まっていた。陽介が再び水面を跳ねると、魚がまた逃げた。


水面の揺れが静まり、陽介の影がその表面に細長く落ちた。魚が逃げていったあと、川の流れはゆっくりと戻り、陽介の体の輪郭が揺れながら映り込んだ。


陽介はその影に気づき、もう一歩、川縁へ体を寄せた。水の冷気が鼻先に触れ、反射した光が胸元へ揺れ込み、影が少しずつ形をはっきりさせていく。


屈んだつもりの姿勢は、いつもより深く低くなり、前足がすぐ水面近くまで伸びていた。川の表面に映った姿は、陽介が知っている自分の形ではなかった。


黒い毛が肩から背中にかけて滑らかに広がり、太い前脚が四つの影に対称に揺れている。胸を上下させるたび、毛並みの中に月の光が細く走り、体の輪郭が動物のそれと同じように波打った。陽介は水面へ顔を近づけ、鼻先に映った細い輪郭を見つめた。小さく息を吸った瞬間、水面が揺れ、黒い目が二つ、月明かりの薄い筋の中に浮かび上がった。


その目は陽介が知る目と位置は同じなのに、形が違い、瞳の奥にゆっくりと光が集まっていた。試しに口を少し開くと、喉が低く震え、牙のように尖ったものがわずかに光を受けて浮かび上がった。


後ろへ引こうとした足は、足元に引っかかって踏みそこなったが、尻尾が勝手に動いて体勢を整えた。腰の布は片側が引き攣るようにずれ、体の動きに合わせてわずかに引かれている。陽介はそれを直そうとしたが、爪が引っかかって布が軽く裂け、指先が布を押さえることができなかった。


そのままもう一度、水面を見た。

水の揺れが収まったとき、黒い輪郭の獣が映り込み、その姿は陽介が一歩動くごとに波紋の中で形を変えた。どれだけ目を凝らしても、人の影はどこにもなかった。


胸の奥でひとつ息を吸い込み、吐いた音が低い声に変わり、その響きが水面に落ちて波紋を作った。陽介はその波紋が消えていくのを見ながら、前足をゆっくり川辺から離し、森の方へと体を向けた。


逃げるわけでも、隠れるわけでもなく、ただ水に映った姿から目を逸らすように、暗い木々のほうへ歩き出した。


四本の足が土を押すたび、小さな振動が腕や肩を伝い、尾がまた勝手に揺れた。その揺れを止められないまま、陽介は森の奥の闇に潜るようにして、薄い夜気の中へ体を滑り込ませた。


木の実を探そうと、枝が広がる樹の下に身を寄せた。頭上に実がいくつか揺れているのが見えたが、立ち上がって枝を掴もうとすると、爪のせいで思うように力が入らず、先端が滑って枝が揺れただけで、実は落ちてこなかった。


何度か爪を引っかけるように試したが、指がうまく曲がらず、木の皮が削れただけだった。陽介は肩を落とすようにして地面へ戻り、落ち葉の上に前足を置いた。


腹がまた鳴った。


息を吸ったとき、乾いた草と、どこか遠くにある生き物の匂いが鼻に届く。その匂いを追うつもりはなかったのに、胸の奥がざわつくように反応し、陽介は一度だけ頭を振って匂いを振り払った。


追いかけるでもなく、近づくでもなく、ただ匂いがあるというだけで体が動きそうになるのを押さえるように、陽介は足元の土を見つめ続けた。


細い獣道の先で、夜の虫の声が揺れていた。その音に紛れるように、陽介は自分の息を整えながら木の根の近くに座り込み、前足を折り曲げて体を小さくした。


毛に覆われた胸と腹が静かに上下するたび、喉の奥の低い響きが漏れそうになり、陽介はそのたびに息の出し方を変えてみたが、完全には消えなかった。


生肉の匂いが風に混じって届いたとき、陽介は反応する前に背筋を強くこわばらせ、森の奥へ視線を向けた。どこかで小動物が死んでいるのかもしれない。


その匂いに惹かれるように胸の奥がざわついたが、陽介は動かず、再び地面に視線を戻し、前足の先を見つめ続けた。


攻撃のための姿勢にも、飛びかかるための動きにもならず、ただじっとしていた。


近くにある枯れ枝を拾おうとしたが、爪が引っかかって上手く掴めない。手の中に収まらず、何度か試しても枝は滑り落ち、音だけが小さく響いた。火を起こそうとしても、枝を束ねる動きが手ではなく“前足”の形になってしまい、陽介はその場で動きを止めた。


火は使えない。

食べ物も掴めない。

木の実も落とせない。

魚も取れない。

生肉は食べたくない。


森の夜気が冷え、葉の隙間から差す月の光が揺れ、陽介の影だけが地面に細長く伸びていた。その影は人の形ではなく、尻尾を揺らす黒い輪郭で、陽介が動くたびに別の形に変わった。目の前の土に前足を置きながら、陽介はその影の揺れをしばらく眺めた。


言葉が喉の奥まで上がってきても、声にしたところで何が変わるのか分からず、ただ呼吸だけが夜気に混ざっていく。その呼吸のたびに、喉の奥の低い響きが少しだけ震え、胸の奥へ広がった。


陽介は前足をそっと地面へ置き、重心を低くしながら、森の匂いが流れていくほうへ顔を向けた。何かを襲うためではなく、ただ夜の中で生き残るために、ここにとどまるしかなかった。

黒い影のまま、陽介は薄い夜の音に身を伏せたまま、動けなかった。



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