第69話 「記録者の決断」
アーク・ステーション。
居住区画C-7。
午前三時。
藤宮澪は、眠れなかった。
ベッドに横たわっている。
天井を、見つめている。
白い天井。
何もない。
部屋は、狭い。
三畳。
ベッド、机、椅子。
それだけ。
窓はない。
ここは、地下五百メートル。
永久凍土の中。
澪は、起き上がった。
机の上には、タブレット。
それを手に取る。
画面を起動する。
表示されるのは、データ。
膨大な、データ。
人類の記録。
過去三年間の、すべて。
感染の発生。
社会の崩壊。
国家の消滅。
文明の終焉。
すべてを、澪は記録してきた。
彼女は、記録者。
人類最後の、記録者。
だが、今。
その記録は、意味を失いつつある。
なぜなら、記録を読む人間が、もういないから。
澪は、タブレットを机に置いた。
そして、立ち上がる。
部屋を出る。
廊下。
薄暗い。
蛍光灯が、点滅している。
ジジジジジ。
誰もいない。
午前三時。
みんな、眠っている。
澪は、歩いた。
廊下を。
エレベーターへ。
エレベーターに乗る。
ボタンを押す。
最上階。
地上。
ゴゴゴゴゴ。
エレベーターが、上昇する。
五百メートル。
三分かかる。
澪は、目を閉じた。
脳裏に、映像が浮かぶ。
モスクワ。
黒と紅の衝突。
虚界展開。
空間の断裂。
あれが、現実。
今の、地球。
人間の常識が、通用しない世界。
エレベーターが、停止した。
ピンポン。
扉が、開く。
外は、夜。
北極圏の夜。
午前三時でも、暗い。
気温、マイナス三十度。
風速、十五メートル。
澪は、コートを羽織っていた。
厚い、防寒コート。
外に出る。
風が、吹いている。
ヒュウウウウウ。
雪が、舞っている。
細かい雪。
顔に当たると、痛い。
澪は、展望台へ向かった。
アーク・ステーションの最上階。
ここから、地平線が見える。
展望台に、到着した。
誰もいない。
ただ、風と雪だけ。
澪は、手すりに手を置いた。
冷たい。
金属の手すり。
そして、空を見上げた。
星が、見えない。
雲が、厚い。
だが、澪には分かっている。
この雲の上に、星がある。
無数の星。
そして、その星々の間を。
人工衛星が、漂っている。
いや、漂っていた。
今は、すべて沈黙している。
セラフΩ。
軌道要塞。
人類最後の兵器。
それも、無力化された。
藤原京によって。
澪は、息を吐いた。
白い息。
それが、風に流される。
彼女は、思い出していた。
三年前を。
東京。
彼女の研究室。
国立感染症研究所。
あの日、最初の感染者が運ばれてきた。
田舎の村から。
小動物に噛まれたという、青年。
藤原京。
彼が、最初だった。
Z-01。
すべての始まり。
澪は、彼を診察した。
血液を採取し、分析した。
そして、見つけた。
ウイルスを。
いや、ウイルスではない。
もっと複雑な、何か。
ナノマシン。
自己複製する、機械。
だが、生命のように振る舞う。
Z-Virus。
彼女は、それを名付けた。
そして、警告した。
政府に、WHO に、国連に。
だが、誰も聞かなかった。
「過剰反応だ」
「ただの感染症だ」
「封じ込めは可能だ」
彼らは、そう言った。
三ヶ月後。
日本は、崩壊していた。
澪は、北方へ逃れた。
研究データを持って。
そして、記録を続けた。
感染の拡大。
社会の崩壊。
人類の終焉。
すべてを、記録した。
なぜか。
彼女自身も、分からなかった。
ただ、記録しなければならないと思った。
誰かが、見なければならない。
誰かが、覚えていなければならない。
人類が、存在したことを。
だが、今。
その誰かが、いない。
記録を読む者が、いない。
記録を必要とする者が、いない。
澪は、手すりを握った。
強く。
冷たい金属が、手のひらに食い込む。
痛い。
だが、それが現実を教えてくれる。
彼女は、まだ生きている。
まだ、ここにいる。
展望台の扉が、開いた。
誰かが、来た。
澪は、振り返った。
クラウス。
評議官。
五十代の男性。
白髪混じりの髪。
疲れた顔。
彼も、コートを着ていた。
「眠れないのか」
クラウスの声が、風に消える。
「はい」
澪が答える。
クラウスは、澪の隣に立った。
同じように、手すりに手を置く。
「私もだ」
彼が呟く。
二人は、黙って立っていた。
風が、吹いている。
雪が、舞っている。
しばらくして、クラウスが口を開いた。
「君は、どう思う」
彼が問う。
「我々は、どうすべきだと」
澪は、答えなかった。
ただ、空を見上げている。
「評議会は、明日決定を下す」
クラウスが続ける。
「三つの選択肢」
「自然絶滅、データ保存、Z波統合」
「君は、どれを選ぶ?」
澪は、目を閉じた。
三つの選択肢。
どれも、人類の終わり。
自然絶滅。
それは、ゆっくりとした死。
二百年かけて、消えていく。
データ保存。
それは、記録としての存在。
生きているのではなく、保存される。
Z波統合。
それは、人間であることを捨てる。
新しい何かに、なる。
どれを選んでも、人類は終わる。
澪は、目を開けた。
「私は、記録を選びます」
彼女の声が、静かに響く。
クラウスが、彼女を見た。
「記録……データ保存か?」
「いいえ」
澪が首を横に振る。
「データ保存ではありません」
「記録者として、生きます」
「どういう意味だ」
澪は、クラウスを見た。
「私は、見続けます」
彼女の声は、確かだった。
「人類が終わるまで」
「新しい種族が生まれるまで」
「地球が変わっていくまで」
「すべてを、記録します」
「それが、私の役割です」
クラウスは、黙っていた。
風が、吹く。
雪が、舞う。
「君一人では、何も変わらない」
クラウスが呟く。
「知っています」
澪が頷く。
「私一人では、何も変えられません」
「人類を救うこともできません」
「未来を変えることもできません」
「でも、記録できます」
「見ることができます」
「覚えていることができます」
「それが、最後にできることです」
クラウスは、深く息を吐いた。
白い息が、風に流される。
「君は、強いな」
彼の声が、震える。
「いいえ」
澪が答える。
「私は、弱いです」
「だから、記録するしかないんです」
「戦えない」
澪が続ける。
「逃げられない」
「変えられない」
「だから、せめて見ます」
「せめて、覚えています」
「それが、私にできる唯一のことです」
クラウスは、何も言えなかった。
澪は、再び空を見上げた。
「評議官」
彼女が呟く。
「人類は、終わります」
「もう、止められません」
「でも、記録は残せます」
「誰が読むか分からない」
「何百年後、何千年後になるか分からない」
「それでも、残せます」
「人類が、存在したという証を」
クラウスは、黙って頷いた。
二人は、立っていた。
展望台で。
風の中で。
雪の中で。
午前四時。
空が、わずかに明るくなり始めた。
北極圏の夜明け。
それは、来ない。
冬の間は、ずっと暗い。
だが、わずかに。
ほんのわずかに。
地平線が、明るくなる。
澪は、その光を見ていた。
そして、思った。
終わりは、始まりでもある。
人類が終わる。
だが、何かが始まる。
新しい種族。
新しい文明。
新しい地球。
それを、見届ける。
記録する。
残す。
それが、彼女の決断。
藤宮澪。
三十二歳。
感染症研究者。
そして、今。
人類最後の記録者。
彼女は、タブレットを取り出した。
コートのポケットから。
画面を起動する。
新しいファイルを作成する。
タイトル:【人類終焉記録】
そして、書き始める。
『2028年11月17日、午前4時。
北緯78度、北極圏。
アーク・ステーション展望台。
私、藤宮澪は、ここに記録する。
人類の終焉を。
新種族の誕生を。
地球の変容を。
この記録が、誰に読まれるか分からない。
何百年後、何千年後になるか分からない。
それでも、記録する。
見る。
覚えている。
それが、最後の人間にできることだから。』
澪は、タブレットを閉じた。
そして、空を見上げた。
風が、止んだ。
雪も、止んだ。
静寂。
わずかに、地平線が明るい。
新しい日が、始まろうとしている。
人類最後の日々が。
クラウスが、展望台を出ていった。
扉が、閉まる。
ガチャン。
澪は、一人になった。
ただ、立っている。
手すりに手を置いて。
地平線を、見つめている。
彼女は、決めた。
生存ではなく、記録。
逃避ではなく、観測。
救済ではなく、証明。
人類が存在したことを、証明する。
それが、彼女の使命。
風が、再び吹き始めた。
ヒュウウウウウ。
澪の髪が、揺れる。
黒い髪。
雪が、積もる。
だが、彼女は動かない。
ただ、見ている。
地平線を。
空を。
世界を。
記録者として。
観測者として。
人類最後の目として。
午前五時。
完全に、暗い。
北極圏の冬。
太陽は、昇らない。
だが、澪には見えている。
闇の中でも。
世界が、変わっていく様が。
地球が、生まれ変わる様が。
それを、記録する。
ずっと。
最後まで。
静寂。
そして、記録は続く。
中央管制室。
午前八時。
評議会が、開かれていた。
七人の評議官。
クラウスを含めて。
彼らは、決定を下さなければならない。
人類の、未来を。
いや、未来はない。
終わり方を、決めなければならない。
マリアが、データを表示する。
「現在の人口、七千二百四十一名」
彼女の声が、会議室に響く。
「遺伝的多様性、〇・七八」
「最小存続可能個体数、五万名」
「不足、四万二千七百五十九名」
「結論:絶滅不可避」
評議官たちは、黙っていた。
データは、明確だった。
人類は、終わる。
議長が、口を開いた。
「セラフΩからの提案、三つ」
彼の声は、重かった。
「選択肢1:自然絶滅」
「選択肢2:データ保存」
「選択肢3:Z波統合」
「投票を行う」
評議官たちは、タブレットを操作する。
結果が、表示される。
選択肢1:2票
選択肢2:4票
選択肢3:1票
データ保存。
それが、人類の選択だった。
議長が、立ち上がった。
「決定する」
彼の声が、響く。
「人類は、データとして保存される」
「遺伝子サンプリング、神経マッピング、文化アーカイブ化」
「すべての人間が、記録される」
「実行は、明日から」
会議室が、静まり返った。
これが、人類の選択。
生存ではなく、保存。
生きるのではなく、記録される。
クラウスは、立ち上がった。
「一つ、提案がある」
彼の声が、響く。
全員が、彼を見た。
「記録者を、一名残す」
クラウスが続ける。
「データ保存後も、観測を続ける者を」
「それは、誰だ」
議長が問う。
「藤宮澪」
クラウスが答える。
「彼女は、最初から記録してきた」
「感染の始まりから、今まで」
「彼女に、最後まで記録させる」
「人類の終焉を」
「新種族の誕生を」
議長は、考えた。
そして、頷いた。
「承認する」
彼の声が、響く。
「藤宮澪を、人類最後の記録者とする」
「彼女は、データ保存から除外」
「観測を、続けさせる」
「異議は?」
誰も、手を挙げなかった。
決定された。
藤宮澪。
人類最後の記録者。
人類最後の目。
彼女は、一人残る。
すべてが終わった後も。
記録するために。
見るために。
覚えているために。
静寂。
そして、決断は下される。
(了)




