第63話 「紅と黒の兆候」
世界が、震えている。
北緯七十二度。
アーク・ステーション。
中央管制室。
時刻、午前三時十五分。
外気温、マイナス三十度。
風速、毎秒二十メートル。
警告音が鳴り響いていた。
ピピピピピ。
甲高い音。
途切れることのない、警告。
六十基のモニターすべてに、赤い文字が表示されている。
【Z波異常検知】
【警戒レベル:最高】
【全職員、待機せよ】
マリアが、モニターに食い入っている。
彼女の顔は、青ざめていた。
額に、冷や汗が浮かんでいる。
手が、震えている。
「Z波……異常です」
彼女の声が震える。
「地球全域で、波動が暴走しています」
画面に映るのは、地球全体の波動マップ。
黒い波。
紅い波。
それらが、激しく脈動している。
まるで、心臓が暴走しているように。
ドクンドクンドクンドクン。
異常な速度で、脈打っている。
通常時の五倍。
毎分三百五十回。
人間なら、即死する心拍数。
クラウスが、立ち上がった。
彼の目には、恐怖が浮かんでいる。
「発生源は?」
「二カ所です」
マリアがタブレットを操作する。
彼女の指が、何度も滑る。
「一つ目……北緯三十五度、東経百三十九度」
「東京か」
「はい」
彼女の指が震える。
「Z波強度、レベル八・三」
「もう一つは?」
「北緯六十八度、東経三十三度」
「……ムルマンスク」
クラウスの声が、低く沈む。
「ロシア北方軍港」
「Z波強度、レベル八・五」
マリアの声が裏返る。
「どちらも、過去最高値です」
クラウスは、何も言えなかった。
ただ、画面を見つめている。
画面が切り替わる。
二つの映像が、並んで表示される。
左側、東京。
廃墟と化した都市。
森に覆われた大地。
かつて三千万人が住んでいた、巨大都市。
今は、墓場。
その中心に、一つの影。
右側、ムルマンスク。
雪に覆われた荒野。
凍てついた大地。
かつて三十万人が住んでいた、軍港都市。
今は、氷の檻。
その中心に、一つの影。
二つの影から、波動が放たれている。
黒。
紅。
それが、地球全体を震わせていた。
東京。
廃墟の中心。
かつて新宿だった場所。
西新宿超高層ビル群。
今は、蔦と苔に覆われた石の森。
藤原京が、立っていた。
金色の眼。
黒い波動。
彼の身長、百七十五センチメートル。
体重、推定六十キログラム。
見た目は、普通のゾンビと変わらない。
だが、その存在感は、圧倒的だった。
彼の周囲、半径一キロメートル。
すべてのゾンビが、静止している。
数万体。
全員が、京を見つめている。
動かない。
呼吸もしない。
瞬きもしない。
ただ、観測している。
京は、空を見上げていた。
午前三時。
まだ、夜明け前。
星が、瞬いている。
北極星。
カシオペア座。
オリオン座。
だが、彼の目には、それ以上のものが見えていた。
波動。
地球全体を覆う、無数の波。
黒。
紅。
緑。
青。
白。
それらが、絡み合っている。
まるで、神経網のように。
そして、もう一つ。
北の方角から、強烈な波動が伝わってくる。
紅。
京の口元が、わずかに歪んだ。
それは、笑みだった。
三年ぶりの、笑み。
『目覚めたか』
言葉ではない。
意識。
波動に乗せた、思念。
それが、地球全体に響き渡る。
光速で。
一秒で、地球を七周半。
京の周囲のゾンビたちが、一斉に動き始める。
数万体が、同時に北を向く。
完璧な同期。
一糸乱れぬ動き。
彼らは、すべて京の意識と繋がっていた。
ムルマンスク。
北極圏に近い、凍土の街。
北緯六十八度。
東経三十三度。
年間平均気温、摂氏二度。
冬季最低気温、マイナス四十度。
かつて三十万人が住んでいた、軍港都市。
今は、廃墟。
雪に覆われた建物。
凍てついた道路。
白い地平線。
すべてが、静寂に包まれていた。
その中心で、神谷刃が目を開いた。
紅い眼。
それが、闇の中で光る。
まるで、灯火のように。
彼の身長、百八十センチメートル。
体重、推定七十五キログラム。
筋肉質の体躯。
無数の傷跡。
戦士の、肉体。
彼は、三年間眠っていた。
北方戦線で感染し、覚醒した後。
彼は、ここで眠り続けていた。
凍土の中で。
氷の檻の中で。
だが、今、目覚めた。
何かが、彼を呼んでいた。
南から。
遠くから。
黒い波動が、彼を呼んでいた。
刃は、ゆっくりと立ち上がる。
周囲には、無数のゾンビが静止している。
雪に覆われた、凍った群れ。
推定、数十万体。
だが、刃が動いた瞬間。
すべてが、動き始めた。
雪が、落ちる。
サラサラサラ。
氷が、砕ける。
バキバキバキ。
凍っていたゾンビたちが、一斉に目を開く。
数十万体。
全員が、紅い眼を持っていた。
彼らは、すべて刃と繋がっていた。
刃は、空を見上げた。
灰色の空。
雪を孕んだ雲。
北極圏特有の、暗い空。
だが、彼の目には、それ以上のものが見えていた。
波動。
地球全体を覆う、無数の波。
そして、もう一つ。
南の方角から、強烈な波動が伝わってくる。
黒。
刃の口が、開いた。
声ではない。
咆哮。
ガアアアアアアアアア。
それが、北極圏全体に響き渡る。
音波が、雪を震わせる。
建物が、揺れる。
氷が、砕ける。
その意味は、明確だった。
『応答する』
アーク・ステーション。
中央管制室。
警告音が、さらに激しくなった。
ピピピピピピピピピ。
マリアが、叫ぶ。
「Z波、臨界値突破!」
彼女の声が裏返る。
「強度レベル七! いえ、八! まだ上昇中!」
「八だと!?」
クラウスが驚愕する。
「前回の記録は……」
「レベル五です」
マリアの手が震える。
「現在、その三倍以上の強度」
「施設への影響は?」
「電子機器に干渉が始まっています」
彼女がデータを確認する。
「量子シールドで防いでいますが……持ちません」
画面に、数値が表示される。
Z波強度:レベル8.7(上昇中)
観測範囲:地球全域
影響範囲:大気圏外まで拡大
干渉対象:すべての電子機器
予測最大値:レベル9.5
クラウスが、椅子に座り込む。
「……始まったのか」
「何がですか?」
「新しい時代が」
彼の声は、静かだった。
「人類の時代が、終わる」
画面の中で、京と刃が動く。
同時に。
京は、一歩踏み出す。
その瞬間、東京全域のゾンビが動き始める。
数百万体。
すべてが、京の意志と繋がっている。
完璧な同期。
完璧な統制。
刃は、咆哮する。
その瞬間、北方全域のゾンビが動き始める。
数百万体。
すべてが、刃の本能と繋がっている。
荒々しい動き。
制御されない暴力。
二つの波動が、衝突する。
黒と紅。
理性と本能。
支配と破壊。
地球が、震えた。
マリアが、画面を凝視する。
「地震……いえ、これは」
彼女の声が震える。
「地軸が、揺れています」
クラウスが顔を上げる。
「地軸?」
「はい」
マリアがデータを表示する。
「地球の自転軸が、〇・〇〇三度ずれました」
「たった二つの存在が……地球を動かしているのか」
「正確には、二つの波動です」
マリアの声が震える。
「Z波が、地球の磁場に干渉しています」
画面の中で、京が微笑む。
彼の周囲、半径十キロメートル。
すべてが、黒い波動に包まれていく。
建物が、浮き上がる。
瓦礫が、宙に舞う。
大地そのものが、歪んでいく。
重力が、歪んでいる。
空間が、歪んでいる。
これが、虚界。
京の力。
空間を支配する、理性の王。
画面の中で、刃が咆哮する。
彼の周囲、半径十キロメートル。
すべてが、紅い波動に包まれていく。
雪が、一瞬で蒸発する。
氷が、溶ける。
大地そのものが、裂けていく。
温度が、上昇している。
現在、摂氏五十度。
マイナス四十度から、一気に九十度上昇。
これが、破界。
刃の力。
現実を破壊する、本能の鬼。
二つの波動が、ぶつかり合う。
東京の黒。
ムルマンスクの紅。
それが、地球全体を駆け巡る。
距離、約七千キロメートル。
だが、波動は瞬時に届く。
波動が、大気を震わせる。
音が、生まれる。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
低い、地鳴りのような音。
周波数、二十ヘルツ。
人間の可聴域下限。
不安を呼び起こす、音。
それが、地球全体に響き渡る。
アーク・ステーション。
施設全体が、揺れ始めた。
ガタガタガタガタ。
マリアが、机にしがみつく。
「揺れが……止まりません」
クラウスも、椅子にしがみついている。
「距離は七千キロメートル以上離れているのに……」
「Z波が、地殻を伝わっています」
マリアがデータを確認する。
「マグニチュード換算で、三・五」
画面の中で、京が動く。
彼は、北を向いた。
そして、意識を放つ。
『来い』
その瞬間、刃が動いた。
彼は、南を向く。
そして、咆哮する。
ガアアアアアアアアア。
その意味は、明確だった。
『行く』
二つの存在が、互いを認識した。
理性と本能。
黒と紅。
王と鬼。
地球が、再び震えた。
マリアが、画面を見つめる。
「彼らは……何をしようとしているんですか」
クラウスは、静かに答えた。
「邂逅だ」
「邂逅……」
「二つの頂点が、出会う」
彼の声が、低く沈む。
「そして、世界が変わる」
画面の中で、京の周囲のゾンビが動き始める。
数百万体。
それが、一斉に北へ向かう。
統制された、行軍。
画面の中で、刃の周囲のゾンビが動き始める。
数百万体。
それが、一斉に南へ向かう。
荒々しい、進撃。
二つの群れが、互いに向かっている。
マリアが、データを確認する。
「移動速度……京の群れ、時速四十キロメートル」
彼女の声が震える。
「刃の群れ、時速六十キロメートル」
「衝突予測地点は?」
「モスクワです」
マリアがタブレットを操作する。
「到達予測時刻……三日後、午前零時」
クラウスは、何も言えなかった。
画面の中で、京が歩き始める。
黒い波動が、彼の足跡に残る。
それは、まるで道のようだった。
理性の道。
秩序の道。
画面の中で、刃が走り始める。
紅い波動が、彼の足跡に残る。
それは、まるで血痕のようだった。
破壊の道。
混沌の道。
二つの道が、地球に刻まれていく。
マリアが、小さく呟いた。
「……これが、進化ですか」
クラウスは答えない。
ただ、画面を見つめている。
画面の中で、京と刃が進み続ける。
黒と紅。
二つの波動が、地球を染めていく。
空が、変わる。
東京上空、黒く染まる。
ムルマンスク上空、紅く染まる。
それが、広がっていく。
徐々に。
確実に。
時速百キロメートルで。
地球が、二色に染まり始めていた。
マリアが、震える声で呟いた。
「……人類の時代は、終わったんですね」
クラウスは、静かに頷いた。
「ああ」
彼の声は、静かだった。
「もう、戻れない」
画面の中で、京と刃が進み続ける。
黒と紅の兆候。
それが、地球全体を覆い始めていた。
静寂。
そして、新しい時代が始まる。
(了)




