第34話「境界崩壊」
夜。
北方山岳の避難民キャンプ。
焚き火が、いくつも焚かれている。オレンジ色の炎。パチパチと音を立てる炎。
避難民たちが、火を囲んでいる。百人ほど。疲れ切った顔。凍えた体。
子供が泣いている。母親が、抱きしめている。
老人が咳をしている。ゴホッ、ゴホッ。
兵士たちが、周囲を警備している。十人ほど。ライフルを構え、暗闇を見つめている。
雪が、降っている。
風が、吹いている。
冷たい風。木々を揺らす風。
その時——
遠くで、音がした。
ガサッ。
枝が折れる音。
兵士の一人が、そちらを向いた。
「何だ?」
暗闇を見つめる。
懐中電灯を向ける。
光が、木々を照らす。
何もいない。
でも——
また、音がした。
ガサッ、ガサッ。
複数の足音。
兵士が、ライフルを構えた。
「誰かいるのか!」
叫ぶ。
返答は——ない。
代わりに——
咆哮が響いた。
「グアアアアア!」
ゾンビだ。
暗闇から、群れが現れた。
数十体。
いや——百体以上。
雪嵐を突き破り、走ってくる。
兵士が、発砲した。
パン、パン、パン。
銃声が、夜空に響く。
ゾンビが倒れる。
でも——止まらない。
次が来る。また次が来る。
「総員、応戦!」
兵士の隊長が叫ぶ。
避難民が、悲鳴を上げる。
火が、倒される。
テントが、破られる。
夜空が——炎と悲鳴で、焦がされた。
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神谷刃は、キャンプの端にいた。
咆哮が聞こえた瞬間、剣を抜いていた。
走る。
キャンプの中心へ。
避難民が、逃げ惑っている。
兵士が、撃ち続けている。
ゾンビが——押し寄せている。
刃は、群れへ飛び込んだ。
溜め。
一体目が襲いかかる。
動作。
剣を振る。
結果。
首が飛ぶ。
余波。
血が噴き出す。
溜め。
二体目が腕を伸ばす。
動作。
剣で腕を切断する。
結果。
腕が落ちる。
余波。
ゾンビがよろめく。
溜め。
刃が踏み込む。
動作。
頭を貫く。
結果。
ゾンビが倒れる。
余波。
次が来る。
刃は、戦い続けた。
一体、また一体。
剣が、血で濡れる。
服が、血で染まる。
顔にも、血が飛び散る。
でも——止まらない。
刃の中で、何かが燃えている。
戦いの高揚。
殺戮の快感。
いや——違う。
これは——
刃の頭に、声が響いた。
——殺せ。
——もっと殺せ。
——それが、お前の本能だ。
刃は、頭を振った。
違う。
俺は、人を守るために——
でも——
群れが、多すぎる。
避難民が、次々と襲われている。
子供の悲鳴。
母親の叫び。
老人の断末魔。
刃は——何もできない。
一人では——
刃の視界が、赤く染まった。
怒りか。
それとも——
刃は、剣を握り締めた。
そして——咆哮した。
「ガアアアアッ!」
人間の声ではない。
獣の咆哮。
刃の体が——変わった。
筋肉が膨らみ、血管が浮き出る。
目が、金色に光る。
理性が——失われていく。
刃は、群れへ突撃した。
剣が、嵐のように振るわれる。
一閃、また一閃。
ゾンビが、次々と倒れる。
刃は——もう、人間ではなかった。
境界を——越えていた。
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同じ頃。
森の中。
藤宮澪は、倒れた避難民の列を発見した。
雪の中に——遺体が転がっている。
十体、二十体——いや、もっと。
老人、子供、女性、男性。
皆、凍死している。
いや——違う。
一部は、噛まれている。
ゾンビに襲われたのだ。
澪は、唇を噛んだ。
遅かった——
その時、声が聞こえた。
「助けて……」
弱々しい声。
澪は、声の方向へ走った。
雪の中——倒れている人影。
女性だ。
二十代くらいだろうか。血まみれで、足を引きずっている。
澪は、駆け寄った。
「大丈夫ですか!」
女性が、澪を見た。虚ろな目。
「助けて……子供が……」
「子供?」
澪が周囲を見渡す。
少し離れた場所——木の陰に、小さな影がある。
澪は、そこへ走った。
子供だ。
五歳くらいの男の子。
凍えている。唇が青い。意識がない。
澪は、子供を抱き上げた。
冷たい。
でも——心臓が、まだ動いている。
生きている。
澪は、女性のところへ戻った。
「この子を連れて、逃げます」
女性が、涙を流した。
「ありがとう……ございます……」
澪は、女性の腕を掴んだ。
「立てますか?」
「……はい」
女性が、立ち上がる。
よろめく。
澪が支える。
「私に、掴まって」
二人は、歩き始めた。
子供を抱えた澪と、足を引きずる女性。
雪の中を。
北へ。
その時——
背後から、咆哮が聞こえた。
「グアアアア!」
ゾンビだ。
澪は、振り返った。
群れが——追ってくる。
十体ほど。
澪は、女性を見た。
「走れますか?」
「……無理です」
女性が、首を振る。
「私は——置いていってください」
「そんなこと——」
「お願いします」
女性が、澪の手を握った。
「この子だけでも——」
澪は、唇を噛んだ。
女性を置いていけば——死ぬ。
でも、連れていけば——全員が死ぬ。
澪は——
決断した。
「わかりました」
澪が、子供を抱え直す。
「必ず、この子を守ります」
女性が、微笑んだ。
「ありがとう……」
澪は、走り出した。
子供を抱えて。
女性を——残して。
背後で——悲鳴が響いた。
澪は——振り返らなかった。
涙が、頬を伝う。
でも——止まらない。
走り続ける。
子供を守るために。
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同じ頃。
大陸の集落。
夜。
藤原京は、ヤマトに連れられて、集落の中心へ来ていた。
そこには——大きな焚き火がある。
炎が、高く上がっている。
周囲に——進化したゾンビたちが集まっている。
三十人ほど。
皆、金色の瞳をしている。
皆、静かに炎を見つめている。
ヤマトが、京に言った。
「今夜は、儀式がある」
「儀式?」
「ああ」
ヤマトが頷く。
「新しい仲間を、迎え入れる儀式だ」
京は、周囲を見渡した。
新しい仲間——
その時、二人の進化体が——何かを引きずってきた。
人間だ。
男性。
三十代くらいだろうか。
縛られている。口には、猿ぐつわ。
目が、恐怖で見開かれている。
京は、息を呑んだ。
これは——
ヤマトが、炎の前に立った。
「皆、静粛に」
ヤマトの声が、響く。
「今夜、我々は新たな仲間を迎える」
ヤマトが、縛られた人間を指す。
「この者を——進化させる」
進化——
京の胸が、ざわついた。
進化体の一人が、ナイフを取り出した。
人間の腕に、傷をつける。
血が流れる。
人間が、もがく。叫ぼうとする。でも、猿ぐつわで声が出ない。
進化体が——自分の腕も切る。
血が流れる。
そして——二つの血を、混ぜ合わせた。
人間の傷口に、進化体の血を塗り込む。
人間が——痙攣し始めた。
ビクン、ビクン。
目が、濁り始める。
口から、泡を吹く。
感染だ。
急速に——進行している。
やがて——
人間の目が、金色に変わった。
進化体になった。
縛られた男が——立ち上がった。
猿ぐつわを、自分で外す。
そして——ヤマトを見た。
「……俺は」
言葉だ。
喋っている。
理性を保っている。
ヤマトが、微笑んだ。
「ようこそ、仲間よ」
周囲の進化体たちが——拍手した。
人間のように。
京は——その光景を見つめていた。
これが——進化か。
強制的に、人間を進化体にする。
理性は保たれる。
でも——
これは、正しいのか。
京の中で、何かが揺れた。
人間性——
それが、崩れていく音が聞こえた気がした。
ヤマトが、京に近づいた。
「どうだ?」
ヤマトが聞く。
「これが、俺たちの儀式だ」
京は、何も答えなかった。
ヤマトが、炎を見つめる。
「人間は、弱い」
ヤマトが言う。
「でも、俺たちは強い」
「だから——人間を進化させる」
「それが——俺たちの使命だ」
京は、ヤマトを見た。
「使命——?」
「ああ」
ヤマトが頷く。
「新しい世界を作る」
「人間でもなく、ゾンビでもなく——」
「進化した存在だけの、世界を」
京の胸が、ざわついた。
それは——
正しいのか。
間違っているのか。
わからない。
でも——
京の中で、何かが変わり始めていた。
理性と本能の境界が——曖昧になっていく。
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北方山岳のキャンプ。
戦いが——終わった。
ゾンビの群れは、撃退された。
でも——
避難民の半分が、死んだ。
兵士も、半数が死んだ。
炎が、まだ燃えている。
テントが、崩れている。
遺体が、転がっている。
刃は——血まみれで立っていた。
剣を握ったまま。
呼吸が、荒い。
目が——まだ金色に光っている。
刃の中で——何かが変わっていた。
理性が——戻ってきた。
でも——完全には、戻らない。
境界が——曖昧になっている。
人間と、ゾンビと——その間。
刃は、自分の手を見た。
血まみれの手。
震えている。
これは——
恐怖か。
それとも——
刃は、空を見上げた。
雪が、降っている。
静かな雪。
その雪が——血で汚れた地面を、覆い隠していく。
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森の中。
澪は、子供を抱えたまま走っていた。
息が上がる。
足が痛い。
でも——止まらない。
子供が——まだ生きている。
心臓が、動いている。
守らなければ。
澪の頭に、女性の顔が浮かんだ。
置き去りにした、女性。
死んだ、女性。
澪は——殺したのか。
いや——
でも——
澪の涙が、止まらない。
これが——正しかったのか。
わからない。
ただ——
澪は、走り続けた。
子供を守るために。
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大陸の集落。
京は、一人で海を見つめていた。
波が、打ち寄せている。
ザザー、ザザー。
月が、海を照らしている。
京の中で——何かが揺れている。
人間性——
それが、崩れていく。
でも——
京は、まだ——
何かを、求めている。
答えを。
自分が何者なのか、という答えを。
京は、北を見た。
あの島で見た文字。
《海の向こうで、待っている》
それは——
ここではない。
もっと北だ。
京は——決めた。
この集落を、出る。
もっと北へ。
答えを、求めて。
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三人の内側で——
人間性が、揺らいでいた。
刃は、理性を失いかけた。
澪は、人を見捨てた。
京は、強制進化の儀式を見た。
三人とも——
境界の存在だった。
人間でもなく、ゾンビでもなく——
その間で、揺れている。
やがて——
三人は、再び出会う。
その時——
何が起きるのか。
誰にも、わからない。
終末の世界で——
人間性の最後の欠片が、消えようとしていた。
-----
(了)




