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第8話 「失われた記憶」


 夜の森は、静まり返っていた。


 焚き火の向こうでは、師匠が木の根元に背中を預け、外套をかぶって眠っている。


 出会ってから数日。


 名前すら教えてくれないこの男は、必要なこと以外ほとんど話さなかった。剣の基礎を教えるときも、手取り足取り説明してくれることはない。


 それでも、男についていくと決めたのはアスト自身だった。


 あの日、男は言った。


 一つだけ、教えてやる。


 いつまで一緒にいられるのかも、何を教えてもらえるのかも分からない。


 それでも、今のアストには十分だった。


 神託の祭壇で告げられた、自分の適性。


 無銘の騎士。


 他の召喚者たちは、剣聖騎士や大賢者といった優れた適性を示したという。


 その噂を耳にするたび、自分との差を思い知らされた。


 努力すれば、いつか追いつける。


 そう信じていた。


 だが、現実は甘くない。


「……まだまだ、だな」


 アストは自分の手を見つめた。


 剣を握る手のひらには、いくつもの傷がある。


 今日も何度、師匠に打ち倒されたか分からない。


 それでも、昨日よりは少しだけ剣が振れるようになった。


 いつか、この男に認められるくらいには。


 アストは焚き火に枝をくべた。


 小さな火の粉が、夜空へと舞い上がった。


 *


 異変が起きたのは、翌日の昼だった。


 師匠の指示で、アストは森の中を一人で進んでいた。


 指定された薬草を採取し、日が暮れる前に戻る。それだけのはずだった。


 帰り道を探していたとき、茂みの向こうから低い唸り声が聞こえた。


 アストは振り向いた。


 黒い毛並みを持つ四足の魔物が、こちらを見据えていた。


 鋭い牙。筋肉の浮き出た前脚。そして、獲物を見定める黄色い瞳。


「……嘘だろ」


 魔物が地面を蹴った。


 アストは横へ飛び、どうにか突進をかわす。


 すぐさま剣を構えた。


 逃げるべきだ。


 だが、周囲には木々が密集している。走れば足を取られ、背後から追いつかれるだろう。


 戦うしかない。


 魔物が再び迫る。


 アストは剣を振った。


 刃は毛皮を浅く裂いただけだった。


 次の瞬間、横腹に衝撃が走った。


「がっ……!」


 身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。


 肺から空気が抜けた。


 息ができない。


 立ち上がろうとしても、脚が震えて力が入らなかった。


 魔物がゆっくりと近づいてくる。


 アストは剣を拾い、震える腕で構え直した。


「くそ……!」


 怖い。


 死にたくない。


 この世界に来てから、何度も悔しい思いをしてきた。


 何もできない自分が嫌だった。仲間たちが先へ進んでいると聞くたび、焦りを感じた。


 それでも、いつか追いつけると信じていた。


 こんなところで終わるために、この世界に来たわけじゃない。


 魔物が跳んだ。


 アストは剣を振るった。


 だが、間に合わない。


 爪が剣を弾き飛ばした。


 金属音が森に響き、剣が遠くの地面に転がった。


 アストは尻もちをついたまま、後ずさる。


 魔物が迫る。


 もう、逃げられない。


「……やめろ」


 声が震えた。


「来るな……!」


 魔物は止まらない。


 頭に浮かんだのは、祭壇の前で告げられた判定だった。


 誰にも認められなかった自分。


 何度も剣を振り、何度も倒れた日々。


 そして、家族の顔。


 帰りたい。


 もう一度、みんなに会いたい。


 まだ、何も返せていない。


 何も成し遂げていない。


 こんなところで死ぬなんて、嫌だった。


 嫌だ。


 嫌だ。


 嫌だ――!


 魔物の爪が振り下ろされた。


 その瞬間、アストの視界が歪んだ。


 目の前の光景が、二つに重なる。


 爪に身体を引き裂かれる自分。


 そして、その直後に地面を転がり、魔物の懐へ潜り込む自分。


 どちらも、まだ起きていない。


 なのに、確かに見えた。


 考える暇はなかった。


 アストは反射的に身体を投げ出した。


 爪が肩をかすめ、血が飛び散る。


 激痛が走った。


 だが、生きている。


 転がった先に、剣があった。


 アストは柄をつかんだ。


 魔物が振り返る。


 再び、脳裏に光景がよぎった。


 右から来る爪。


 低く潜る自分。


 首の付け根へ突き立てる剣。


 アストは地面を蹴った。


 右から迫る爪をかいくぐり、魔物の懐へ滑り込む。


 そして、首の付け根へ剣を突き立てた。


 刃が深く食い込む。


 魔物が激しく暴れた。


 アストは歯を食いしばり、両手で柄を握り締めた。


 やがて、魔物は力を失い、地面に崩れ落ちた。


 森に静寂が戻った。


「……はっ、はっ……」


 アストは剣を握ったまま、膝をついた。


 肩から血が流れている。


 身体中が痛い。


 それでも、生きていた。


 勝ったのだ。


 偶然かもしれない。


 火事場の馬鹿力だったのかもしれない。


 だが、最後の瞬間に見た光景だけは、説明がつかなかった。


 あれは、まだ起きていない未来だった。


「……今のは、何だったんだ」


 答える者はいない。


 木々の隙間から、午後の光が差し込んでいた。


 アストは何度も息を吸った。


 生きている。


 その事実を確かめるように。


 そして、胸の奥に生まれた小さな違和感には、まだ気づいていなかった。


 *


 夜。


 焚き火の前で、アストは魔物の肉を焼いていた。


 肩の傷は、師匠が無言で手当てしてくれた。


 魔物を倒したことも、未来が見えたという話も、男はまだ何も聞いていない。


 ただ一言、こう告げただけだった。


「明日、話を聞く」


 そう言って、今は目を閉じている。


 アストは焼けた肉を口に運んだ。


 香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


 その瞬間、懐かしい光景が頭をよぎった。


 食卓。


 湯気の立つ皿。


 目の前に置かれた、大きなステーキ。


 卒業式の前夜。


 家族が、自分のために用意してくれた食事だった。


 父も、母も、妹もいた。


 みんなで食卓を囲んでいた。


 妹が笑っていたことは覚えている。


 母が料理を並べていたことも。


 父が向かい側に座っていたことも。


 けれど。


 父は、あのとき何と言っていたのだろう。


 母は、どんな顔で笑っていた?


 妹は、何を話していたのだろう。


 アストは目を閉じ、記憶をたどった。


 ――何も浮かばない。


 確かに、そこにいたはずなのに。


 声が思い出せない。


 言葉が思い出せない。


 あの夜、みんなで何を話したのか。


 どうして笑っていたのか。


 何一つ、思い出せなかった。


「……なんだよ、これ」


 アストは肉を持つ手を止めた。


 たった数か月前のことだ。


 忘れるはずがない。


 あの夜は、確かに幸せだった。


 そのことだけは分かる。


 なのに、その幸せを形作っていたものが、少しずつ指の間からこぼれ落ちていく。


 思い出そうとするほど、遠ざかっていく。


 まるで、最初からそんな記憶など存在しなかったかのように。


「……お前」


 不意に、背後から声がした。


 師匠が目を開けていた。


「何を考えている」


「……今日のことです」


 アストは迷った末に答えた。


「死ぬと思った瞬間、変なものが見えたんです。まだ起きていない光景が。それで、その通りに動いたら……魔物を倒せました」


 男は黙っていた。


「俺、未来が見えたんでしょうか」


 焚き火が爆ぜた。


 男はしばらく炎を見つめていた。


 やがて、低い声で呟く。


「……そうか」


 その声には、驚きとも、諦めともつかない響きがあった。


「何か知っているんですか?」


 男は答えなかった。


 ただ、アストの顔をじっと見つめた。


「お前、今日のこと以外に、何か変わったことはないか」


 アストは息を呑んだ。


 どうして、そんなことを聞くのだろう。


 少し迷ったあと、家族との食卓の記憶について話した。


 男は最後まで口を挟まずに聞いていた。


 そして、アストが話し終えると、静かに目を伏せた。


「……そうか。お前もか」


「え?」


「いや」


 男は外套を引き寄せた。


「明日から、少しだけ付き合ってやる」


「えっ?」


「一つだけ、教えてやることがある」


「それって……未来を見る力のことですか?」


 男は答えなかった。


 背中を向けたまま、低く告げる。


「自分が何を失っているのか、知らないまま力を使うな」


 それきり、男は口を閉ざした。


 アストは焚き火を見つめた。


 ようやく手に入れた、自分だけの力。


 これがあれば、もっと強くなれるかもしれない。


 いつか、仲間たちにも追いつけるかもしれない。


 だが、その力と引き換えに、何を失っているのか。


 今のアストには、まだ分からなかった。


 ただ一つ、確かなことがある。


 家族と過ごした、あの幸せな夜。


 その記憶は、確かに自分の中にあったはずなのに。


 今はもう、そこにあったはずの声さえ、思い出せなかった。

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