第7話 「届かない剣」
王都の朝は、鐘の音とともに始まる。
白い石造りの城壁に囲まれた王城。その一角にある広大な訓練場には、二人の少年が立っていた。
アストとシオン。
二人の前に立つのは、王国騎士団を率いる騎士長だった。数々の戦場を生き抜き、幾多の魔物を討ち取ってきた歴戦の騎士である。
「本日より、お前たちの指導を任された」
騎士長は二人を見据えた。
「近頃、国境付近で魔物の異常発生が確認されている。各地で襲撃も増えているそうだ。いつ、この国に大きな脅威が迫るか分からん」
一拍置いて、騎士長は続けた。
「お前たちには、いざというときに自分の身を守れるだけの力を身につけてもらう」
アストは黙って聞いていた。
国の危機も、魔物の異常発生も、無視できない問題なのだろう。
けれど、アストの頭にあるのは、たった二人のことだった。
「あの……」
「なんだ」
「俺たちが強くなれば、国の外へ出ることもできますか?」
騎士長の眉がわずかに動いた。
「国の外へ?」
「はい。探したい人がいるんです」
脳裏に浮かんだのは、二人の顔。
いつも勝負を挑んできた、負けず嫌いな少年。
そして、隣にいるだけで、何気ない日常を特別なものにしてくれた少女。
オクトとカナデ。
突然引き裂かれた、大切な仲間たち。
どこにいるのかも分からない。
無事なのかどうかさえ分からない。
それでも、アストは信じていた。
あの二人が、簡単に諦めるはずがないと。
「……鍛錬の目的を履き違えるな」
騎士長は厳しい声で告げた。
「まずは自分の身を守れるようになれ。話はそれからだ」
「はい!」
隣で、シオンが力強く返事をした。
アストも慌てて頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
こうして、二人の修行が始まった。
◇
最初の一週間、二人は同じ訓練を受けた。
素振り、足運び、剣の構え。
相手の動きを見極めるための基礎訓練。
騎士長は一切の妥協を許さなかった。
「シオン、踏み込みが浅い。もう一歩前に出ろ」
「はい!」
「アスト、剣先がぶれている。腕だけで振るな。身体全体を使え」
「はい!」
何度も剣を振った。
何度も注意された。
そして、何度も同じ失敗を繰り返した。
それでも、アストは食らいついた。
朝から晩まで剣を振り続け、手のひらに豆ができても、皮が剥けても、木剣を握る手を緩めなかった。
オクトに会うために。
カナデに会うために。
もう一度、四人で笑うために。
その願いだけは、誰にも譲れなかった。
ある日の夕暮れ。
訓練を終えた騎士長は、誰もいなくなった訓練場で剣を振り続けるアストを見つけた。
「……まだやるのか」
「はい。もう少しだけ」
「明日も訓練がある。身体を壊せば意味がないぞ」
「分かっています。でも……」
アストは木剣を握り直した。
「俺、どうしても会いたい人たちがいるんです」
騎士長は答えなかった。
ただ、夕暮れの中で剣を振る少年を見つめていた。
その姿を、騎士長はしばらく目に焼き付けるように見ていた。
◇
一か月が過ぎた。
シオンは目に見えて成長していた。
剣の軌道は安定し、足運びにも無駄がなくなった。騎士長の教えを一度聞けば、次の訓練では修正できる。
実戦形式の訓練でも、同年代の候補生を相手に勝利を収めるようになっていた。
「いい動きだ、シオン」
「ありがとうございます!」
「飲み込みが早い。鍛えれば、いずれ騎士団の中核を担う人材になるかもしれんな」
シオンは嬉しそうに笑った。
だが、すぐにアストへ視線を向ける。
「アストも、頑張ってますから」
「……そうだな」
騎士長の視線の先では、アストがまたしても地面に倒れていた。
相手の剣を受け止めようとして体勢を崩す。
踏み込もうとしても、足がついてこない。
教えられた型を再現しようとしても、身体が思うように動かなかった。
努力していないわけではない。
むしろ、誰よりも努力していた。
人一倍剣を振り、誰よりも長く訓練場に残っている。
それなのに、結果がついてこない。
「もう一度、お願いします!」
アストは立ち上がった。
「先ほどと同じ失敗をするだけだ。何が違う?」
「次は、できます!」
「根拠はあるのか」
「……ありません」
アストは一瞬、言葉に詰まった。
それでも、剣を構え直す。
「でも、やらなきゃできるようにならないから」
騎士長は険しい表情を浮かべた。
やがて、訓練相手に告げる。
「続けろ」
次の瞬間、アストの身体が再び地面に倒れた。
騎士長は、その様子を黙って見つめていた。
◇
さらに一か月が過ぎた。
シオンは実戦を想定した特別訓練を任されるようになっていた。
剣術だけではない。
魔物の特徴、集団戦での立ち回り、仲間を守るための判断。
覚えることは多かったが、シオンは着実に身につけていった。
一方のアストは、相変わらず思うような成果を出せずにいた。
訓練の合間、シオンは何度もアストのもとを訪れた。
「今日も残るのか?」
「ああ。あと少しだけ」
「夕食、冷めるぞ」
「先に食べててくれ」
シオンはため息をついた。
「……無理はするなよ」
「分かってる」
アストは笑った。
その笑顔が無理をしていることくらい、シオンには分かっていた。
アストが何のために剣を振っているのかも知っている。
王国のためでも、名声のためでもない。
ただ、大切な仲間に会いたい。
その一心で、アストは剣を握り続けていた。
だからこそ、シオンはアストを置いていきたくなかった。
だが、現実は残酷だった。
シオンが一歩ずつ前へ進む一方で、アストは同じ場所で何度もつまずいていた。
騎士長もまた、その姿を見続けていた。
訓練の後、アストが一人で剣を振るう姿。
倒れても、傷ついても、翌朝にはまた訓練場に立つ姿。
何かを変えようと、必死にもがく姿。
騎士長は、指導方法を見直すようになっていた。
ある日の訓練後。
「アスト。話がある」
騎士長に呼び止められた。
「明日から、お前の訓練内容を変更する」
「本当ですか?」
アストの顔が明るくなった。
新しい訓練なら、何かが変わるかもしれない。
そう思った。
「剣の実技訓練を一時中止する」
「……え?」
「基礎が身についていない状態で続けても意味がない。まずは身体づくりと座学に専念しろ」
「でも、俺は……」
「命令だ」
それ以上、何も言えなかった。
アストは唇を噛み締めた。
悔しかった。
それでも、まだ諦めてはいなかった。
◇
それから二週間。
アストは身体を鍛え、戦術を学び、剣の歴史や魔物の生態についても勉強した。
言われたことは、すべてやった。
少しでも成長できるなら、どんなことでもやるつもりだった。
騎士長もまた、アストの様子を気にかけていた。
訓練の記録を見直し、何か変えられることはないかと考える。
だが、これといった答えは見つからなかった。
そして、再び実技訓練に戻る日が来た。
「始めろ」
騎士長の合図とともに、アストは剣を構えた。
相手は以前と同じ候補生だった。
今度こそ。
今度こそ、何かが変わっているはずだ。
アストは踏み込んだ。
剣を振った。
だが、相手の剣に弾かれ、体勢を崩す。
そのまま、地面に膝をついた。
「……もう一度!」
「やめろ」
騎士長の声が訓練場に響いた。
「ですが、まだ……」
「やめろと言った」
騎士長はゆっくりと歩み寄った。
その表情には、怒りよりも深い苦悩が滲んでいた。
「お前が努力していることは、誰よりも分かっている」
「だったら……!」
「最後まで聞け」
騎士長は一度、言葉を切った。
「……正直に言えば、お前には何度も驚かされた」
「え……?」
「何度倒されても立ち上がる。誰よりも遅くまで残り、誰よりも剣を振る。その姿を、俺はずっと見ていた」
騎士長は、わずかに視線を落とした。
「何とかしてやりたいと思った。訓練方法を変え、内容も見直した。少しでもお前に合うやり方がないか、ずっと考えてきた」
「だったら、まだ俺は……」
「だが、もう十分だ」
騎士長は静かに首を横に振った。
「これ以上、自分を追い込むな。お前は十分にやった」
「……でも、俺はまだ強くなれていません」
「分かっている」
騎士長はアストから目を逸らさなかった。
「だからこそ、これ以上お前に同じことを続けさせるわけにはいかない」
その声には、指導者としての厳しさと、わずかな悔しさが滲んでいた。
「今日をもって、お前への指導を終了する」
静寂が落ちた。
アストは何も言えなかった。
騎士長の言葉が、胸の奥に重く沈んでいく。
神託の祭壇で告げられた評価が脳裏をよぎった。
無銘の剣士。
適性が低く、将来性も期待できない。
あのときは、まだ信じていた。
努力すれば変われると。
騎士長のもとで鍛えれば、いつか仲間を探しに行けると。
けれど、どれだけ剣を振っても、結果は変わらなかった。
「……分かりました」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
アストは立ち上がり、深く頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
騎士長は何も言わなかった。
ただ、その頭を下げた少年を見つめていた。
本当は、引き止めたかった。
だが、もう自分にできることはない。
「……アスト」
呼び止められた少年が、顔を上げる。
「剣を振るうことだけが、強さではない」
騎士長は、それだけ告げた。
アストは小さく頷き、訓練場を後にした。
その背中が見えなくなるまで、騎士長はその場を動かなかった。
◇
その夜。
アストは宿舎のベッドに腰掛け、自分の手のひらを見つめていた。
何度も剣を握った手。
何度も傷つき、それでも握り直した手。
その手には、訓練でできた傷がいくつも残っていた。
それなのに、何も変わらなかった。
扉が開き、シオンが入ってきた。
「アスト……」
「聞いたのか?」
「ああ」
「そっか」
アストは笑おうとした。
「俺、やっぱり才能なかったみたいだ」
「そんなこと……」
「いいんだ。分かってたから」
シオンは言葉を失った。
アストは窓の外へ視線を向けた。
遠くに、王城の明かりが見える。
「なあ、シオン」
「……なんだ?」
「オクトとカナデ、どこにいるんだろうな」
シオンは答えられなかった。
「俺たち、また四人で会えるよな?」
しばらくの沈黙のあと、シオンは口を開いた。
「……会えるさ」
「そっか」
アストは小さく笑った。
そして、静かに告げた。
「だったら、俺は探しに行くよ」
シオンが目を見開いた。
「今のままじゃ、何もできないだろ。分かってる。でも、ここにいても何も変わらない」
「待てよ。騎士長の指導が終わったからって、すぐに出ていく必要はない。別の方法だってあるはずだ」
「ありがとう、シオン」
アストは立ち上がった。
「お前が頑張ってるの、俺はちゃんと見てたよ。騎士長にも期待されてる。きっと強くなれる」
「アストだって、まだ……」
「俺は俺のやり方を探す」
シオンは言葉を詰まらせた。
アストの目には、もう迷いがなかった。
「アスト……」
「シオン。お前は、ここで強くなってくれ」
アストは振り返った。
「俺がオクトとカナデを見つける。お前がこの国で強くなる。そうすれば、いつか四人で集まったとき、誰か一人くらい、みんなを守れるようになってるかもしれないだろ?」
「……馬鹿」
シオンは顔を伏せた。
「一人で全部背負わないでよ」
「背負ってるつもりはないよ」
アストは微笑んだ。
「ただ、会いたいんだ」
その言葉だけは、嘘ではなかった。
◇
翌朝。
王都の門が開くと同時に、アストは外へ出た。
背負った荷物は、着替えとわずかな食料。
腰には、使い古された剣が一本。
振り返れば、王城から騎士たちの声が聞こえてくる。
昨日まで、自分もあの場所にいた。
けれど、もう戻るつもりはなかった。
オクトを探す。
カナデを探す。
そして、いつか四人でもう一度笑う。
そのために、自分にできることを探す。
剣の才能がないのなら、別の方法を見つければいい。
騎士長に教わることができなくなったのなら、自分で強くなる方法を探せばいい。
何も分からない。
何の保証もない。
それでも、立ち止まるつもりはなかった。
アストは前を向いた。
王都の外には、見たこともない広い世界が広がっていた。
そのどこかに、二人がいる。
「待ってろよ、オクト。カナデ」
少年は歩き出した。
まだ誰も知らない。
この選択が、やがて世界の運命を大きく変えることになるなど。
そして、見放されたと思っていた少年が、いつか誰よりも遠くへたどり着くことになるなど。
このときのアストは、まだ何も知らなかった。




