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第20話 「それぞれの旅立ち」

朝の光が、村を静かに照らしていた。


 昨日までの戦いが嘘のように、穏やかな風が吹いている。


 壊れた家屋の修復は、まだ始まったばかりだった。


 それでも、村人たちの表情には少しずつ明るさが戻り始めていた。


「本当に、行ってしまうんですね」


 村の入口で、リンダが二人を見送っていた。


「ああ。ここでやるべきことは、まだ残っているんだろ?」


 アストがそう尋ねると、リンダは小さく頷いた。


「ええ。村の人たちを守らなければなりませんから」


 彼女の視線の先には、壊れた家を直す村人たちの姿があった。


 まだ不安は残っている。


 けれど、彼らは前を向こうとしていた。


「リンダも、無理はするなよ」


「それはアストさんたちも同じです」


 リンダは少しだけ笑った。


「次に会うときは、もっと胸を張って迎えられるようにしておきます」


「楽しみにしてるよ」


 アストはそう答えた。


 隣にいたシオンも、リンダへ向き直る。


「リンダさん。今まで本当にありがとうございました」


「こちらこそ。二人が来てくれたおかげで、この村は救われました」


 リンダは一度言葉を切り、二人の顔を見つめた。


「だから……二人とも、ちゃんと帰っておいで」


 その言葉に、アストは力強く頷いた。


「ああ。また必ず来る」


 それは、約束だった。


 二人は村を振り返り、もう一度だけ手を振った。


 リンダもまた、二人の姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。


*


 村を離れてから、しばらくの時間が経った。


 街道の先には、アルセリア王国へ続く道が伸びている。


 アストとシオンは、並んで歩いていた。


「アストさん」


「ん?」


「アルセリア王国にいるカナデさんとオクトさん……本当に無事なのでしょうか」


 シオンの声には、不安が滲んでいた。


 忘却の使徒に敗れた。


 二人について聞かされたのは、それだけだった。


 その後の消息は分からない。


「分からない。でも、まだ生きている可能性はある」


 アストは前を見据えたまま答えた。


「だったら、助けに行く。それだけだ」


「……そうですね」


 シオンは小さく頷いた。


 アストにとって、カナデもオクトも大切な存在だった。


 この世界に来る前から、ずっと一緒に過ごしてきた。


 だからこそ、簡単に諦めることなどできない。


 どれほど強大な敵が相手でも、必ず二人を見つけ出す。


 アストはそう決めていた。


*


 昼過ぎ。


 二人は街道沿いにある小さな村へとたどり着いた。


 しかし、村の様子はどこかおかしかった。


 人々は外に出ているものの、誰もが沈んだ表情をしている。


 会話も少なく、村全体が静まり返っていた。


「何かあったのでしょうか……」


 シオンが周囲を見回す。


 そのとき、一人の老人が二人に声をかけてきた。


「旅の方かね」


「はい。何かあったんですか?」


 アストが尋ねると、老人は困ったように眉を寄せた。


「それが……最近、村の人間が大切なことを忘れてしまうんじゃ」


「忘れる?」


「ああ。家族の名前や、一緒に過ごした思い出までな」


 老人は視線を落とした。


「わしもじゃ。長年連れ添った妻がおったはずなのに……顔も、名前も思い出せん」


「そんな……」


 シオンが息を呑む。


「じゃが、不思議なことに、誰かを大切に思っていたことだけは分かるんじゃ」


 老人は胸元に手を当てた。


「その人を思い出そうとすると、胸が苦しくなる。何かを失ってしまったような気がするんじゃよ」


 その言葉に、アストの表情が険しくなった。


 記憶を奪う。


 それは、忘却の使徒の力と関係しているのではないか。


「いつから、こんなことが?」


「数日前じゃ。森の方から黒い霧が現れてから、急におかしくなった」


「黒い霧……」


 アストとシオンは顔を見合わせた。


 嫌な予感がした。


「その森に行ってみます」


「待ちなされ! 危険じゃぞ!」


 老人が声を上げる。


 しかし、アストは足を止めなかった。


「確かめなきゃいけないんです」


 そう言い残し、二人は森へと向かった。


*


 森の奥は、異様なほど静かだった。


 鳥の声も、風に揺れる木々の音も聞こえない。


 まるで、森そのものが何かを恐れているようだった。


「アストさん、あそこ……!」


 シオンが指差した先。


 木々の間に、黒い霧が漂っていた。


 その中心に、人の形をした何かが立っている。


 全身を黒い霧に覆われ、顔は判別できない。


 だが、その存在から放たれる気配は、明らかに普通の魔物とは違っていた。


「お前が、村の人たちの記憶を奪ったのか?」


 アストが問いかける。


 すると、黒い影がゆっくりと首を傾けた。


「キオクヲ……」


 かすれた声が森に響く。


「記憶を……奪わせろ……」


「やっぱり、忘却の使徒の眷属か!」


 アストは剣を構えた。


 黒い影が動いた。


 次の瞬間、地面を滑るように距離を詰めてくる。


「シオン!」


「はい!」


 アストが正面から斬りかかる。


 しかし、剣が触れた瞬間、黒い霧が弾けた。


「くっ……!」


 霧が周囲に広がり、アストの視界を覆う。


 その隙を突いて、黒い影がシオンへと迫った。


「シオン、避けろ!」


「っ!」


 シオンは剣を振るい、黒い影を迎え撃つ。


 光刃が闇を切り裂いた。


 だが、その直後だった。


 黒い霧の一部が、シオンの腕に絡みついた。


「きゃっ!」


「シオン!」


 アストが駆け寄ろうとする。


 しかし、黒い影はその間にも霧を広げ、二人を引き離そうとした。


「離れろ!」


 アストの剣が空間を断つ。


 黒い霧が大きく裂け、影の動きが一瞬止まった。


「今だ、シオン!」


「はい!」


 シオンの剣に光が集まる。


 その輝きは、周囲の闇を押し返すほど強くなっていた。


「天光剣!」


 放たれた光が、黒い影を貫いた。


 影は声にならない音を漏らし、身体を崩していく。


「キオクヲ……」


 最後までその言葉を繰り返しながら、黒い霧は消えていった。


 森に、静寂が戻る。


「……倒したのか?」


「はい。どうやら、そのようです」


 シオンは剣を下ろした。


 アストは彼女のもとへ駆け寄る。


「腕は大丈夫か?」


「少し驚いただけです。大丈夫ですよ」


 そう答えるシオンの腕には、黒い痕のようなものが薄く残っていた。


「その腕……」


「ああ、これですか? 痛みはありません」


 シオンは不思議そうに自分の腕を見つめる。


 アストは気になったが、今はそれ以上の異常も見当たらなかった。


「村に戻って、みんなの様子を確認しよう」


「そうですね」


 二人は森を後にした。


 だが、黒い痕は消えることなく、シオンの腕に残り続けていた。


*


 村の人々に異常がないことを確認し、二人は再びアルセリア王国への道を歩き始めた。


 夕暮れが近づき、空が赤く染まり始めている。


「アストさん」


「どうした?」


「さっきの魔物……記憶を奪う力を持っていたのでしょうか」


「ああ。あの黒い霧に触れたとき、嫌な感覚があった」


「忘却の使徒の力と関係があるのかもしれませんね」


「たぶんな」


 アストは少しだけ歩く速度を落とした。


 頭に浮かぶのは、アルセリア王国にいる二人のことだった。


 カナデ。


 そして、オクト。


 二人が無事である保証はない。


 それでも、助けに行くと決めた。


「カナデとオクトを救いに行こう」


 アストがそう告げると、シオンは微笑んだ。


「……はい」


 しかし、次の瞬間。


 シオンは不思議そうに首を傾げた。


「アストさん、オクトさんって……誰ですか?」


「……え?」


 アストの足が止まった。


「何を言ってるんだよ。オクトはお前の兄だろ!」


 思わず声が大きくなる。


 シオンは困惑した表情を浮かべた。


「私の……兄?」


「ああ。お前の大切な兄だ。俺にとっても、昔から一緒に過ごしてきた幼馴染で……ずっと競い合ってきたライバルだ」


 アストは必死に説明した。


 幼い頃から、何度も競い合った。


 互いに負けたくなくて、何度もぶつかり合った。


 そんな二人を、いつも近くで見ていたのがシオンだったはずだ。


 忘れるはずがない。


 忘れていいはずがない。


 しかし、シオンは首を横に振った。


「ごめんなさい……本当に、分からないんです」


 その表情に嘘はなかった。


 シオンは、本当にオクトを知らないのだ。


「そんな……」


 アストは彼女の腕に目を向けた。


 そこには、森で黒い霧に触れたときについた痕が残っている。


 まさか。


 あの眷属は、シオンの記憶を奪ったのか。


 しかも、すべてではない。


 シオンはアストのことも、カナデのことも覚えている。


 ただ一人。


 兄であるオクトの記憶だけが、失われていた。


「……オクト」


 アストは小さく名前を呟いた。


 助けに行くと決めたばかりだった。


 それなのに、彼の妹は、兄の存在すら覚えていない。


 忘却の使徒は、ただ記憶を奪うだけではない。


 人と人との繋がりさえ、消し去ろうとしている。


 アストは拳を握りしめた。


 必ず取り戻す。


 オクトも、シオンの記憶も。


 そして、忘却の使徒に奪われたすべてを。


 夕暮れの道を、二人は再び歩き始めた。


 同じ目的地を目指しながら。


 しかし、その胸に抱く記憶は、もう同じではなかった。

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