第19話 「力の代償」
町に朝が訪れた。
昨日まで静まり返っていた広場には、少しずつ人々が集まり始めていた。
誰もが、自分の手を見つめている。
「……戻った」
老人が震える声で呟いた。
その手のひらに、小さな炎が灯る。
隣にいた女性も、恐る恐る両手を掲げた。
すると、指先から淡い光が溢れ、周囲に小さな花が咲いた。
「魔法が……戻ったんだ!」
その声をきっかけに、広場のあちこちから歓声が上がった。
長い間、失われていた力。
もう二度と使えないかもしれないと諦めていた魔法が、再び人々の手に戻ってきたのだ。
子どもたちは、嬉しそうに走り回っていた。
「見て! 僕にもできたよ!」
一人の少年が両手を広げる。
その指先から、小さな水の球がいくつも浮かび上がった。
別の少女が風を起こすと、色とりどりの花びらが空へ舞い上がる。
町の人々も次々と魔法を使い始めた。
家々の周囲には淡い光が灯り、広場には花が咲き誇る。
枯れていた木々にも新しい葉が芽吹き、町全体が少しずつ鮮やかな色を取り戻していった。
「すごい……」
シオンは、目の前に広がる光景を見つめていた。
「みんな、本当に嬉しそうね」
「ああ」
アストも小さく頷いた。
昨日まで、魔法を奪われた人々の表情には不安と諦めが浮かんでいた。
それが今は、誰もが笑っている。
自分たちが戦った意味を、目の前の光景が教えてくれているようだった。
「二人とも!」
声の方へ振り向くと、町長のおばあちゃんがこちらへ歩いてきていた。
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「本当にありがとう。あなたたちのおかげで、この町は救われたわ」
「俺たちだけの力じゃありません。リンダがいてくれたからです」
アストがそう答えると、隣にいたリンダが少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「私は、自分の故郷を守りたかっただけよ」
「それでもよ。あなたたち三人がいなければ、今頃この町はどうなっていたか……」
おばあちゃんは、深く頭を下げた。
「どうか、しばらくこの町にいてちょうだい。みんな、あなたたちにお礼をしたいと思っているの」
「ありがとうございます。でも、俺たちは早く次の目的地へ向かわなければなりません」
アストが答えると、おばあちゃんは少し寂しそうに微笑んだ。
「そうよね。あなたたちにも、やらなければならないことがあるのでしょう」
「はい。仲間を探さなければならないんです」
「そう……」
おばあちゃんは一度頷き、少し考えるように目を伏せた。
「それなら、あなたたちに一つ伝えておきたいことがあるの」
「何でしょうか?」
「アルセリア王国のことよ」
その言葉に、アストとシオンが顔を上げた。
「最近、アルセリア王国で何か異変が起きているという話を耳にしたの。詳しいことまでは分からないけれど、王国の様子が以前とは違うらしいわ」
「アルセリア王国……?」
アストが呟く。
すると、リンダが口を開いた。
「そこは、オクトとカナデが召喚された国よ!」
「オクトとカナデが……?」
シオンの表情が変わった。
「ええ。二人が召喚されたのはアルセリア王国だったはずよ」
リンダはおばあちゃんへ視線を向けた。
「その異変について、もう少し詳しく分かることはない?」
「残念だけれど、今の私たちにはそこまでの情報はないの。ただ、何か大きなことが起きているのは確かみたい」
アストは静かに考え込んだ。
剣聖と大賢者。
喪失が最後に残した言葉が、頭をよぎる。
オクトとカナデが既に落ちている。
もし、その言葉が本当なら、二人は危険な状況にいるのかもしれない。
「……行こう」
アストが顔を上げた。
「アルセリア王国へ。二人のことが心配だ」
「うん。私も早くお兄ちゃんに会いたい」
シオンも力強く頷いた。
「そうね。何が起きているのか、確かめる必要があるわ」
リンダも同意した。
おばあちゃんは三人の決意を見て、静かに頷いた。
「分かったわ。どうか気をつけてね」
「ありがとうございます」
アストは頭を下げた。
すると、おばあちゃんは少しだけ表情を和らげた。
「でも……せめて今夜だけは、私たちに感謝の気持ちを示させてくれないかしら」
「今夜、ですか?」
「ええ。ささやかだけれど、宴を開きたいの。町のみんなも、あなたたちに直接お礼を言いたいはずよ」
アストはシオンとリンダを見た。
二人も小さく頷く。
「分かりました。今夜だけ、お世話になります」
「ありがとう。きっと、みんな喜ぶわ」
おばあちゃんは嬉しそうに笑った。
*
その夜。
町の広場には、大きな食卓がいくつも並べられていた。
焼きたての肉や野菜、色とりどりの料理が所狭しと並んでいる。
広場の中央では、町の魔法使いたちが協力し、空中に無数の光を浮かべていた。
淡い光が夜空を照らし、まるで星が地上に降りてきたかのようだった。
人々の笑い声が響く。
子どもたちは魔法で作った光の玉を追いかけ、大人たちは久しぶりに使えるようになった魔法を見せ合っていた。
「こんなに賑やかな町だったのね」
シオンが周囲を見渡しながら言った。
「魔法を奪われる前は、もっと賑やかだったのよ」
リンダが答える。
「でも、今夜はきっと、それ以上に嬉しい夜ね」
「そうですね」
シオンは笑顔で頷いた。
そのとき、一人の少年がアストの前に駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん!」
「ん? どうしたんだ?」
「これ、見て!」
少年が両手を広げる。
小さな光の粒が、ふわりと宙に浮かんだ。
「すごいな。上手じゃないか」
「えへへ! 昨日までは全然できなかったんだよ!」
「そうか。よかったな」
アストが笑うと、少年も満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう! お兄ちゃんたちのおかげだね!」
少年はそう言って、再び広場へ駆けていった。
その背中を見送っていると、今度は年配の女性が料理を持ってきた。
「旅の人たち、これも食べていっておくれ。うちの自慢の料理なんだよ」
「ありがとうございます」
「遠慮しないでね。今日はたくさん食べていってちょうだい」
女性は嬉しそうに笑い、アストたちの前に料理を並べた。
「本当に、みんな嬉しそうね」
シオンが呟く。
「ああ。よかったよ」
アストは料理を見つめながら答えた。
その表情には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
少し離れたところでは、リンダが町の人々に囲まれていた。
「リンダ、久しぶりだな!」
「おばあちゃんから聞いたよ。よく帰ってきてくれたね」
「もう、みんな大げさよ」
そう言いながらも、リンダの表情は柔らかかった。
しばらくして、人々の輪が少しずつ落ち着き、シオンはアストの隣へ腰を下ろした。
「疲れてない?」
「大丈夫。シオンこそ、怪我はもう平気?」
「ええ。もう問題ないわ」
二人は料理を口に運びながら、しばらく町の様子を眺めていた。
やがて、シオンがぽつりと口を開いた。
「ねえ、アスト」
「ん?」
「カナデのこと、覚えている?」
アストの手が、ほんの少し止まった。
「もちろん。幼馴染だよ。昔から一緒に過ごしてきた、大切な人だ」
「そう……」
シオンは少しだけ視線を落とした。
「カナデのこと、好きだったんじゃないの?」
「好き?」
アストは不思議そうに聞き返した。
「ああ。もちろん大切だよ。ずっと一緒にいたし、心配もしている。でも……」
そこで言葉が途切れた。
「でも?」
「どうなんだろう。自分でも、よく分からないんだ」
アストは手元の料理を見つめた。
「カナデが大切な人だってことは分かる。だけど、恋愛感情っていうのかな……そういう気持ちが、今は思い出せないんだ」
シオンは言葉を失った。
「以前は、確かに好きだったはずなんだ。でも、今はその気持ちがどんなものだったのか、分からない」
アストは困ったように笑った。
「変だよね。大切な人なのに」
アストは、カナデの笑顔を思い浮かべようとした。
幼い頃から一緒に過ごしてきた、大切な幼馴染。
その姿は、今でもはっきりと思い出せる。
けれど、その隣にいたときの自分の気持ちだけが、どうしても見つからなかった。
以前なら、彼女のことを考えるだけで胸の奥が温かくなったのだろうか。
会いたいと思う気持ちも、誰かに取られたくないと思う気持ちも、そこにあったのだろうか。
確かに存在していたはずなのに、今のアストには、その感覚が分からなかった。
「……ううん」
シオンは静かに首を横に振った。
「変なんかじゃないわ」
彼女はそう答えながらも、胸の奥に複雑な感情を抱いていた。
アストが自分に恋愛感情を持っていないことに、少しだけ安堵してしまった。
けれど、それ以上に悲しかった。
彼にとって大切な人への想いが、本人の知らないところで失われている。
それは、決して喜べることではなかった。
「……カナデはきっと、あなたに会いたいと思っているはずよ」
「そうだね。だから、早く会いに行かないと」
アストは笑った。
その笑顔は、いつもと変わらないように見えた。
けれどシオンには、その奥にある何かが欠けているように感じられた。
*
宴が終わり、町が静けさを取り戻した頃。
三人は宿泊する部屋へ戻っていた。
部屋の中には、ベッドが二つと小さなテーブルが置かれている。
アストは荷物を下ろし、ようやく一息ついた。
しかし、部屋を見渡したところで、ふと疑問が浮かんだ。
「……なあ」
「どうしたの?」
リンダが振り返る。
「なんで同じ部屋なんだ?」
「部屋が足りなかったのよ。宴の準備で町の宿もいっぱいになってしまったみたい」
「それは分かったけど……」
アストは二つ並んだベッドを見た。
「俺もここで寝るの?」
「そうよ?」
リンダは何でもないことのように答えた。
「別にいいでしょう? 私たちは仲間なんだから」
「いや、そういう問題じゃ……」
そのとき、隣の部屋から戻ってきたシオンが扉を閉めた。
「お待たせ」
アストは何気なく振り向いた。
そして、言葉を失った。
二人とも、普段の冒険着とは違う部屋着に着替えていた。
シオンは肩の出た淡い色の寝間着を身につけ、リンダも普段より少し大胆な装いだった。
「……どうしたの?」
シオンが首を傾げる。
「いや、その……」
アストは慌てて視線を逸らした。
「ちょっと待ってくれ。せめて、もう少し普通の格好をしてくれないか?」
「あら、どうして?」
リンダが楽しそうに近づいてくる。
「何か問題でもあるの?」
「問題というか……」
「もしかして、意識しているの?」
シオンまで、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いや、そりゃ……」
アストは言葉に詰まった。
リンダがさらに一歩近づく。
「顔が赤いわよ?」
「近いって!」
アストは思わず後ずさった。
その様子を見て、二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑い出した。
「ふふっ。冗談よ」
「ごめんなさい、アスト。ちょっとからかいたくなっちゃって」
「まったく……」
アストは大きく息を吐いた。
「二人とも、勘弁してくれよ」
「ふふ。悪かったわね」
リンダは笑いながら椅子に腰を下ろした。
シオンもベッドの端に座る。
ようやく部屋に落ち着いた空気が戻った。
しかし、そのときだった。
「……ところで、アスト」
リンダの声が少し低くなった。
「少し、気になることがあるの」
「気になること?」
「あなたの力についてよ」
アストとシオンは顔を見合わせた。
「時空断絶のこと?」
「ええ。今日の話を聞いていて、以前から気になっていたことを思い出したの」
リンダはゆっくりと話し始めた。
「あなたが未来を見る力を初めて使ったときのことよ」
アストは目を伏せた。
「……あの森で、魔物と戦ったときか」
「そう。あのとき、あなたはまだ起きていない未来を見て、魔物を倒した。その後、家族と過ごした夜の記憶が曖昧になったと言っていたわね」
「……ああ」
「大きなステーキを食べた、卒業式の前夜。家族と一緒に過ごした幸せな時間だった。でも、お父さんが何を話したのか、お母さんがどんな顔で笑っていたのか、妹が何を言ったのか……思い出せなくなっていた」
アストは黙っていた。
「そのときは、偶然なのかもしれないと思っていた。でも、もう一つ気になることがあるわ」
リンダはシオンに視線を向けた。
「帝国で再会したときのこと。アストは時間剥奪を使えるようになっていたけれど、自分がそこに至るまで、どれほど努力してきたのかを覚えていなかった」
「……そうです」
シオンが静かに答えた。
「アストは本当に必死だったんです。何度倒れても立ち上がって、剣を振り続けて……。私は、その姿を覚えています。でも、本人はほとんど覚えていなかった」
「そして、今回よ」
リンダはアストを見つめた。
「時空断絶を使った後、あなたはカナデへの恋愛感情が分からなくなっていた」
アストは、ゆっくりと顔を上げた。
「カナデが大切な幼馴染だということは覚えている。でも、以前持っていたはずの恋愛感情が思い出せない。そうでしょう?」
「……そうだ」
リンダは一度、目を伏せた。
「失っているものは違う。でも、どれもアストにとって大切だったものよ」
沈黙が流れた。
窓の外から、遠くで誰かが笑う声が聞こえた。
今日、魔法を取り戻した人々の喜びは、まだ町のあちこちに残っている。
けれど、この部屋には重い空気が漂っていた。
「未来を見る力を初めて使ったときは、家族との思い出。時間剥奪を使えるようになったときは、強くなるまでの努力。そして、今回の時空断絶では、カナデへの恋愛感情……」
リンダは一つずつ確かめるように言葉を重ねた。
「もしかすると、あなたの力は、使うたびに何かを失わせているのかもしれない」
「そんな……」
シオンの声が震えた。
「でも、どうして記憶なんだ?」
アストが尋ねる。
「分からないわ。ただ、これまでの出来事を考えると、そうとしか思えないの」
リンダは真剣な表情で続けた。
「しかも、失っているものは少しずつ違う。家族との思い出、努力の記憶、誰かを想う気持ち……。単に過去の出来事を忘れているだけではないのかもしれない」
アストは自分の手を見つめた。
未来を見る力。
時間剥奪。
そして、時空断絶。
力を手に入れるたびに、自分の中から何かが消えていたのだとしたら。
自分は一体、どれほどのものを失ってきたのだろう。
「アスト……」
シオンが心配そうに声をかけた。
「大丈夫だよ」
アストはそう答えた。
だが、その声にいつもの力強さはなかった。
「まだ、何も決まったわけじゃない。リンダの言う通りかもしれないけど、確かめる必要がある」
「そうね。今はまだ推測にすぎないわ」
リンダは頷いた。
「でも、これからは力を使うとき、十分に気をつけて。何を失うのか分からない以上、無闇に使うべきではないわ」
「ああ。分かった」
アストは静かに答えた。
シオンは彼の隣で、そっと拳を握り締めた。
強くなってほしいと思っていた。
アストが誰にも負けない力を手に入れられたら、きっと嬉しいと思っていた。
けれど、その力が彼から大切なものを奪っているのだとしたら。
そんな強さを、素直に喜ぶことはできなかった。
「……明日、アルセリア王国へ向かいましょう」
リンダが言った。
「オクトとカナデのことも気になるし、アストの力についても、何か手がかりが見つかるかもしれない」
「そうだね」
アストは窓の外を見つめた。
夜空には、町の人々が灯した魔法の光が、まだいくつか浮かんでいた。
今日、誰かを救うことができた。
それは確かなことだった。
けれど、その代わりに自分の中から何かが失われているのかもしれない。
強くなることが、誰かを守るためだったとしても。
そのたびに、自分の大切なものを失っていくのだとしたら。
それでも、自分は剣を握り続けられるのだろうか。
アストには、まだ答えが分からなかった。




