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第16話 「失われゆく魔法」

 森の奥から、獣の咆哮が響き渡った。


 木々が揺れ、地面に積もった枯れ葉が舞い上がる。


 その中心にいたのは、巨大な四足の魔物だった。


 黒い体毛に覆われた巨体。額から伸びる二本の角。そして、獲物を見定める赤い瞳。


 その魔物が、アストたちの前に立ちはだかっていた。


「……思っていたより大きいね」


 シオンが剣を構えながら、魔物を見上げた。


「大きいだけなら、まだいいんだけどね」


 リンダは指先に炎を灯す。


「こいつ、さっきから私たちの動きを見てる。普通の魔物じゃないわ」


 アストは腰の剣に手をかけ、静かに息を吐いた。


「二人とも、俺が隙を作る。その瞬間に仕掛けてくれ」


「分かったわ」


「任せて、アスト」


 三人が、それぞれの位置へと動いた。


 魔物が地面を蹴る。


 巨体からは想像できない速度で、アストへと突進してきた。


 アストは逃げない。


 迫り来る牙を見据え、剣の柄を握り締める。


「――時間剥奪」


 瞬間、魔物の動きが止まった。


 正確には、魔物が進もうとしていた時間が奪われたのだ。


 踏み込んだ前脚も、振り下ろそうとした爪も、すべてが一瞬だけ空白になる。


 アストは、そのわずかな隙を見逃さなかった。


「シオン!」


「うん!」


 シオンが地面を蹴った。


 剣に光が集束する。


 白く輝く刃が、魔物の懐へと滑り込んだ。


「光刃!」


 一閃。


 光をまとった斬撃が、魔物の前脚を深く切り裂く。


 時間が戻った瞬間、魔物の巨体が大きく傾いた。


 だが、まだ倒れない。


 魔物は咆哮を上げ、シオンへと牙を向けた。


「させないわ!」


 リンダが両手を広げた。


 地面を走った炎が、魔物を取り囲むように立ち上がる。


「燃え上がれ――業火の檻!」


 轟音とともに、炎の壁が円を描いて燃え上がった。


 紅蓮の炎が高くそびえ立ち、魔物の逃げ道を塞ぐ。


 閉ざされた炎の檻の中で、魔物は逃げ場を失い、激しく身をよじった。


「今だ、シオン!」


「これで終わり!」


 アストが再び時間剥奪を放つ。


 動きの止まった魔物へ、シオンが踏み込んだ。


 光の刃が、魔物の胸元を斬り抜ける。


 直後、リンダの炎が一気に収束した。


 魔物の咆哮が途切れる。


 巨体がゆっくりと崩れ落ち、森に静寂が戻った。


「……終わった?」


 シオンが剣を下ろす。


「たぶんね。最後まで気を抜かないで」


 リンダは炎を消しながら、倒れた魔物を警戒していた。


 やがて魔物が動かなくなったのを確認すると、彼女は小さく息を吐いた。


「それにしても、なかなかいい連携だったじゃない」


「リンダの炎がなかったら、逃げられていたかもしれない」


 アストがそう言うと、リンダは少しだけ得意げに笑った。


「当然でしょ。私を誰だと思ってるの?」


「さっき、炎を出すタイミングを迷っていた人」


「……シオン?」


「えっ、私、何か変なこと言った?」


 シオンが首を傾げる。


 リンダは額を押さえた。


「あなたたち、ほんとに……」


 思わず三人の間に笑いがこぼれた。


 旅を始めてから、まだそれほど時間は経っていない。


 それでも、互いの力を理解し、自然と連携できるようになっていた。


 アストは剣を鞘に収めながら、二人の姿を見た。


 こうして仲間と並んで戦えること。


 それが、今の自分にとってどれほど大切なものなのか。


 以前の自分なら、考えることもなかったのかもしれない。


◇


 日が傾き始めた頃、三人は森の中で野営の準備を始めた。


 近くに川があり、周囲には見通しの利く開けた場所もある。夜を越すには悪くない場所だった。


 アストは薪を集め、シオンは荷物から食料を取り出す。リンダは少し離れた場所で、周囲に簡単な火の結界を張っていた。


「これでよし、と」


 リンダが手を払う。


「魔物が近づいてきたら、炎が反応するようにしておいたわ。これで少しは安心ね」


「助かるよ。ありがとう、リンダ」


「どういたしまして」


 リンダは微笑むと、アストの顔をじっと見つめた。


「それにしても、あなたって意外と気が利くのね」


「意外と、は余計だろ」


「ふふっ。褒めてるのよ?」


 意味ありげな笑みを浮かべ、リンダはアストのそばを通り過ぎた。


 そのとき、彼女の長い髪がアストの肩をかすめる。


「……あまり見つめられると、照れるんだけど?」


「見てない」


「あら、そう?」


 リンダは楽しそうに笑った。


 その様子を、食料を並べていたシオンがちらりと見ていた。


 胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。


 別に、何か問題があるわけではない。


 リンダは仲間だし、アストと親しく話すのも自然なことだ。


 それなのに。


「シオン、どうかした?」


「えっ? ううん、何でもないよ!」


 急に声をかけられ、シオンは慌てて首を振った。


 アストは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は何も聞かなかった。


 その反応を見て、シオンはなぜか少しだけ残念に思った。


 自分でも、その理由がよく分からない。


◇


 夜。


 焚き火を囲んで、三人は簡単な食事を取っていた。


 森の中には、薪のはぜる音と、遠くで鳴く虫の声だけが響いている。


「ねえ、アスト」


 シオンが口を開いた。


「今日の戦い、すごかったね。時間剥奪を使うタイミングも、私が動くタイミングも、ちゃんと分かってくれていた」


「シオンが合わせてくれたからだよ」


「……そ、そうかな」


 アストは自然にそう言っただけだった。


 けれど、シオンはその言葉を聞いて、頬が熱くなるのを感じた。


 戦いの最中、アストの声が聞こえると、不思議と迷いが消えた。


 彼が作ってくれた一瞬の隙。


 その一瞬を信じて、剣を振るうことができた。


 それだけじゃない。


 旅の途中、何気なく自分を気遣ってくれること。危険な場所では、いつも周囲を確認してくれること。


 気づけば、彼のことを目で追っている。


 以前から、アストのことは大切だった。


 でも、今はそれだけではない気がした。


「……アストって、昔からあんな感じなの?」


 リンダが、面白そうに尋ねた。


「え?」


「誰かのために動くのが当たり前、みたいな顔をしてるじゃない」


 シオンは少し考えた。


「うん。昔からそうだったと思う」


「へえ」


 リンダはアストへ視線を向ける。


「自分のことは後回しにしがち?」


「……まあ、そうかもしれない」


「やっぱり」


 リンダは小さく笑った。


「そういう人って、放っておくと自分が傷つくことにも気づかないのよね」


 その言葉に、シオンは顔を上げた。


「……うん。私も、そう思う」


 思いのほか真剣な声が出た。


 アストが二人を見比べる。


「なんだよ。俺の悪口か?」


「心配してるのよ」


 リンダが即座に答えた。


「そうだよ。アストは、もっと自分のことも大切にしないと」


 シオンも続けた。


 二人の視線を受け、アストは困ったように頭をかいた。


「……分かった。気をつけるよ」


「本当かしら」


「本当だって」


 リンダがくすりと笑う。


 シオンも、つられるように笑った。


 その笑顔を見て、アストは少しだけ肩の力を抜いた。


 誰かに心配してもらえる。


 それは、思っていたよりも温かいものだった。


◇


 食事を終えると、シオンは眠る準備を始めた。


 明日も歩き続けることになる。早めに休んでおいた方がいい。


「私、先に休むね。二人とも、おやすみなさい」


「ああ、おやすみ」


「おやすみ、シオン」


 シオンは毛布にくるまり、横になった。


 目を閉じても、なかなか眠れない。


 焚き火の向こうで、アストとリンダが話している声が聞こえる。


 楽しそうな声だった。


 それを聞いて、胸の奥がまた少しだけざわついた。


 どうして、こんな気持ちになるのだろう。


 リンダがアストと仲良くするのは、当然のことなのに。


 自分だって、アストともっと話したい。


 もっと彼のことを知りたい。


 隣にいることが、当たり前になってほしい。


 そんな思いが浮かび、シオンは慌てて毛布を引き上げた。


「……何考えてるんだろ、私」


 小さく呟く。


 けれど、否定することはできなかった。


 自分は今、アストのことを特別な存在として意識し始めている。


 その事実に気づいてしまったから。


◇


 焚き火の前には、アストとリンダだけが残っていた。


 薪が崩れ、火の粉が夜空へと舞い上がる。


「……ねえ、アスト」


 リンダが静かに口を開いた。


「さっき、シオンと話していたでしょう?」


「何のことだ?」


「あなたのことを、昔から知っているって話」


 アストは少し考えた。


「……そうだな。長い付き合いだから」


「大切なのね」


「ああ。大切な仲間だよ」


 迷いのない返事だった。


 リンダは、その言葉を聞いて微笑んだ。


「そっか」


 それから、しばらく沈黙が続いた。


 やがてリンダは、焚き火を見つめながら口を開いた。


「私にもね、帰る場所があったの」


 アストは彼女へ視線を向けた。


「故郷のことか?」


「ええ」


 リンダは炎に照らされた自分の手を見つめた。


「小さな頃から魔法が好きだった。火を灯すことができるようになった日は、家族がすごく喜んでくれたの。母は私のために料理を作ってくれて、父は魔法の練習に付き合ってくれた」


 懐かしむような声だった。


「町には、私よりずっとすごい魔法使いがたくさんいた。古い書物を研究している人もいたし、何十年も魔法を磨き続けている人もいた。私はいつか、そんな人たちに追いつきたかった」


「いい町だったんだな」


「ええ。本当にね」


 リンダは微笑んだ。


 けれど、その笑顔は長く続かなかった。


「……だからこそ、怖かったの」


「魔法を失うことが?」


「そう」


 リンダは小さく頷いた。


「魔法は、私のすべてだった。自分の力を信じていたし、努力すればもっと強くなれると思っていた。でも、ある日から、町の魔法使いたちが次々と魔法を使えなくなり始めたの」


 焚き火が、ぱちりと音を立てた。


「最初は、疲れや体調のせいだと思われていた。でも、違った。昨日まで使えていた魔法が、突然使えなくなる。どれだけ練習しても、どれだけ魔力を込めても、何も起きなくなる」


 リンダは唇を噛んだ。


「私は、自分もいつかそうなると思った。魔法がなくなったら、自分に何が残るのか分からなかった」


「……それで、町を出たんだな」


「ええ。誰にも相談できなかった。家族にさえ、本当の気持ちを話せなかった」


 リンダは顔を上げ、アストを見た。


「今思えば、逃げたんでしょうね。何もできなくなる自分を見るのが、怖かったから」


「逃げることが、必ずしも悪いとは思わない」


 アストは静かに答えた。


「自分が壊れるまで耐える必要はないだろ。生きていれば、やり直すことだってできる」


 リンダは目を見開いた。


 それから、ゆっくりと笑った。


「……あなたって、本当に不思議な人ね」


「そうか?」


「ええ。何気なく言っているんでしょうけど、そういう言葉に救われる人もいるのよ」


 リンダは少しだけ身を寄せた。


 焚き火の熱とは違う、柔らかな温もりが近づく。


「だから、あなたと一緒にいると、もっと話してみたくなるのかもしれないわ」


「……リンダ?」


「あら、困らせちゃった?」


 リンダはいたずらっぽく笑い、元の位置へ戻った。


「冗談よ。……半分くらいはね」


 アストは返事に困り、思わず視線をそらした。


 その反応を見て、リンダは小さく笑った。


 けれど、すぐに表情を引き締めた。


「明日、故郷に着いたら、まずは古い魔法使いを訪ねるつもり。あの人なら、何か知っているかもしれない」


「四つの封印についても?」


「ええ。昔から、町には四つの封印に関する伝承が残っているの。詳しいことは知らないけれど、あの人なら何か知っているはずよ」


「分かった。一緒に確かめよう」


 アストは頷いた。


「リンダの故郷で何が起きているのか、魔法を奪っているのが何者なのか。全部、明らかにしよう」


 リンダはしばらく彼を見つめていた。


 そして、静かに微笑んだ。


「……ありがとう、アスト」


 その声には、先ほどまでの軽さはなかった。


 彼女はずっと、故郷のことを忘れようとしていた。


 魔法を失う恐怖から逃げ、あの町で何が起きているのかを考えないようにしていた。


 けれど、もう一度向き合う時が来たのだ。


 今度は、一人ではない。


◇


 翌朝。


 三人は森を抜け、リンダの故郷へと向かっていた。


 道中、リンダは町について語った。


 古い石造りの建物が並ぶ町。


 魔法を学ぶ者たちが集まり、何世代にもわたって知識を受け継いできた場所。


 そして、町の中心には、かつて大魔法使いが築いたとされる古い塔があるという。


「その町には、四つの封印についての伝承も残っているの」


 リンダが言った。


「四つの封印?」


 アストが聞き返す。


「ええ。昔、世界に大きな災厄をもたらす存在がいて、それを封じるために四つの封印が作られた……そんな話よ。子供の頃に聞かされた程度で、詳しいことは知らないけれど」


「その古い魔法使いなら、詳しいことを知っているかもしれないんだね」


 シオンの言葉に、リンダは頷いた。


「そう思っている。あの人は、町の誰よりも長く生きていると言われているから」


 やがて、道の向こうに町の姿が見えてきた。


 高い石壁。


 尖塔の並ぶ街並み。


 かつて訪れたときと、変わらないはずの故郷。


 だが、リンダの足取りは次第に重くなっていった。


 門をくぐると、町の中は妙に静かだった。


 通りを歩く人々の姿はある。


 店も開いている。


 子供たちの声も聞こえる。


 それなのに、どこか活気がなかった。


「……やっぱり、何かおかしい」


 リンダが呟いた。


 通りの向こうでは、一人の老人が魔法を使おうとしていた。


 手のひらに魔力を集める。


 だが、何も起きない。


 老人は何度も試した後、力なく手を下ろした。


 近くにいた人々も、同じように沈んだ表情を浮かべている。


「本当に、魔法が……」


 シオンが言葉を失う。


 リンダは拳を握り締めた。


 ここは、彼女が生まれ育った町だ。


 魔法とともに生きてきた人々が暮らす場所だった。


 その町から、魔法が消え始めている。


「急ぎましょう」


 リンダは前を向いた。


「まずは、あの魔法使いに会う。何が起きているのか、絶対に突き止めるわ」


 アストとシオンは頷き、彼女の後を追った。


 三人はまだ知らなかった。


 この町で起きている異変が、単なる魔法の衰退などではないことを。


 そして、魔法を失わせている存在が、四つの封印の一つを探していることも。


 リンダの故郷で、何かが動き始めていた。

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