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第11話 「失われたもの」



迷宮の最深部


「ここが最後だ」


師匠は、目の前にそびえる巨大な扉を見上げた。


壁一面に刻まれた古代文字。扉の隙間からは、肌を刺すような冷気が流れ出している。


アストは、ごくりと喉を鳴らした。


「……本当に、ここを攻略するんですか?」


「そのために三か月も付き合わせたんだろうが」


「いや、聞いていた話と違いますよ。最後の試練って、もっとこう……安全に強さを確かめるものじゃないんですか?」


「安全な試練で、死線を越える判断が身につくか?」


師匠は振り返りもせず、扉に手をかけた。


「ほら、行くぞ」


「ちょっと待ってくださいよ!」


重々しい音とともに、扉が開く。


その向こうには、巨大な円形の広間が広がっていた。


天井は見えないほど高く、壁には武器を携えた石像が等間隔に並んでいる。広間の中央には、黒い鎧をまとった巨人が立っていた。


その手に握られているのは、アストの身長ほどもある大剣。


二人が足を踏み入れた瞬間、背後の扉がひとりでに閉ざされた。


直後、巨人の兜の奥に赤い光が灯る。


――ゴオオオオッ!


地鳴りのような音が響き、巨人が動き出した。


「アスト、よく見ておけ!」


師匠が剣を抜く。


「こいつは俺が引き受ける。お前は動きを見て、自分ならどう戦うか考えろ!」


「はい!」


巨人の大剣が振り下ろされた。


師匠は真正面から剣をぶつける。


轟音が広間を震わせ、衝撃で床の石が砕け散った。


それでも師匠の足は、一歩たりとも退かない。


巨人の巨体がわずかに傾いた瞬間、師匠は剣を滑らせるように受け流し、その懐へ踏み込んだ。


一閃。


黒い鎧に深い傷が刻まれる。


「……すごい」


思わず漏れたアストの声に、師匠が鋭く叫んだ。


「感心してる場合か! 次はお前だ!」


「えっ?」


巨人が師匠を振り払い、アストへと向き直る。


次の瞬間、大剣が迫った。


「うわっ!」


アストは地面を蹴り、横へ飛び退いた。


刃が床を砕き、飛び散った破片が頬をかすめる。


体勢を立て直し、反撃の剣を振るう。


しかし、刃は鎧に弾かれた。


重い。


速い。


何より、一撃でもまともに受ければ終わる。


アストは歯を食いしばり、巨人の攻撃を避け続けた。


剣を振り下ろす直前の肩の動き。


踏み込む足の向き。


大剣が描く軌道。


師匠に教わったことを思い出しながら、必死に隙を探す。


だが、見つけたと思った瞬間には、次の攻撃が迫っていた。


「くそっ……!」


後退した背中が壁にぶつかる。


逃げ場がない。


巨人が大剣を両手で持ち上げた。


その向こうで、師匠が叫ぶ。


「アスト! 剣を追うな!」


アストは顔を上げた。


「見るべきなのは、剣じゃない! 相手が剣を振るう、その前だ!」


意味を理解するより早く、刃が落ちてくる。


アストは必死に横へ飛んだ。


大剣が肩をかすめ、身体が壁に叩きつけられる。


息が詰まった。


視界が揺れる。


それでも巨人は止まらない。


再び、大剣が持ち上がる。


今度こそ、避けられない。


死ぬ。


その言葉が、頭の中をよぎった。


もっと強くなりたかった。


師匠のようになりたかった。


まだ何も成し遂げていない。


大切なものを守れるほど、強くなれていない。


ここで終わるなんて、嫌だった。


その瞬間。


世界が歪んだ。


巨人の動きが、二つの光景に分かれて見えた。


ひとつは、大剣に押し潰される自分。


もうひとつは、刃が落ちる直前に踏み込み、巨人の懐へ潜り込む自分。


どちらも、今まさに起ころうとしている光景のようだった。


未来。


そう理解した瞬間、身体が動いていた。


アストは刃の軌道を紙一重で抜け、巨人の懐へ飛び込む。


だが、剣が届かない。


巨人の腕が、すでに次の動作へ移っていた。


このままでは間に合わない。


見えた未来に、届かない。


――嫌だ。


――ここで終わってたまるか!


アストの中で、何かが弾けた。


「止まれえええっ!」


瞬間。


巨人の動作が途切れた。


振り上げられた腕が、空中でわずかに静止する。


ほんの一瞬。


それは、時間そのものが止まったような感覚だった。


だが、実際には違う。


巨人の動作から、ほんのわずかな時間が抜け落ちていた。


アスト自身にも、何が起きたのか分からない。


ただ、今しかないと本能が告げていた。


剣を握り直し、全身の力を込める。


巨人の鎧の隙間へ、渾身の一撃を突き立てた。


「うおおおおおっ!」


刃が深く食い込む。


巨人の赤い光が明滅し、その巨体が大きく揺らいだ。


やがて、轟音とともに膝をつき、床へと崩れ落ちる。


広間に静寂が戻った。


アストは、その場に膝をついた。


「……倒した?」


荒い呼吸を繰り返しながら、自分の手を見つめる。


未来が見えた。


そして、一瞬だけ、相手の動きが途切れた。


偶然ではない。


確かに、自分の中から何かが生まれた。


「師匠……今の、俺……」


振り返ると、師匠が剣を鞘に収めていた。


「見ていた」


「俺、何をしたんでしょうか?」


師匠はすぐには答えなかった。


アストの顔を見つめ、やがて、その頭に手を置いた。


「お前の中に眠っていた力が、目を覚ましたんだろう」


「俺の……力?」


「ああ。だが、未来を見たのか、それとも別の何かなのか。今の段階じゃ、俺にも断言できん」


師匠は、倒れた巨人へ視線を向けた。


「一つだけ言っておく。力を使えるようになったからといって、何度も使うな」


「どうしてですか?」


「力には、必ず理由がある。理由も分からず振り回せば、いずれ自分が呑まれる」


いつになく真剣な声だった。


アストは、静かに頷いた。


「……分かりました」


そのとき、巨人の背後にあった石碑が淡い光を放った。


刻まれた古代文字が、一つずつ浮かび上がっていく。


アストには読めない。


だが、その中の一文を目にした瞬間、師匠の表情が変わった。


――失われた者は、再び呼ばれる。


師匠は、その文字を見つめたまま動かなかった。


「……まさか」


「師匠?」


呼びかけられ、師匠は我に返ったように顔を上げる。


「いや。何でもない」


そう答えたものの、その目からは、いつもの気だるげな雰囲気が消えていた。


「ここを出るぞ」


師匠は踵を返した。


アストは最後にもう一度、石碑を振り返った。


意味は分からない。


それでも、あの一文が妙に心に引っかかっていた。


まるで、自分の知らない何かが、遠い過去から呼びかけているようだった。


2.喪失の使徒


迷宮を出た頃には、空が茜色に染まっていた。


森の中に野営の準備を整え、アストは焚き火に薪をくべた。


師匠は少し離れた木の根元に腰を下ろし、目を閉じている。


「師匠」


「何だ」


「さっきの石碑、何か知っているんですか?」


師匠はすぐには答えなかった。


しばらくして、ゆっくりと口を開く。


「……昔、似たような言葉を聞いたことがある」


「誰からですか?」


「さあな」


師匠は自嘲気味に笑った。


「肝心なところを、忘れちまった」


それ以上、アストは尋ねなかった。


師匠が何かを隠していることは分かる。


だが、今の自分には、まだ聞くべきではないこともある。


そう思った。


そのときだった。


焚き火の炎が、音もなく消えた。


風が止まる。


虫の声も、木々のざわめきも聞こえなくなった。


森全体が、何かに息を潜めている。


「……師匠?」


師匠はすでに立ち上がっていた。


剣を抜き、アストの前に立つ。


「下がっていろ」


低い声だった。


森の奥から、一人の女が歩いてくる。


長い黒髪が、風もないのにゆっくりと揺れていた。


黒を基調としたドレスのような衣装。細い指には、刃のない奇妙な剣が握られている。


顔立ちは息を呑むほど美しい。


しかし、その瞳には、喜びも怒りも、悲しみさえも浮かんでいなかった。


ただ、底の見えない静けさだけがあった。


女は二人の前で足を止めた。


「……やっと見つけた」


澄んだ声が、静まり返った森に響いた。


「あなたが、ここにいたのね」


師匠の身体が強張った。


「……何者だ」


女は小さく首を傾げた。


「私のことも忘れたの?」


責める響きはなかった。


まるで、天気について尋ねるような、何気ない口調だった。


「いいえ。あなたにとっては、忘れてしまったほうが楽だったのかもしれないわね」


師匠は剣を握る手に力を込めた。


「お前は……」


言葉が続かない。


記憶の奥底に、何かが引っかかっている。


だが、手を伸ばそうとするたび、何もない空白に触れる。


女はその様子を見つめ、わずかに微笑んだ。


「思い出せないのね」


そして、静かに告げた。


「私は喪失の使徒。あなたのように、失うべきものを抱えた人を探しているの」


「……ふざけるな」


師匠の声に、怒りが混じった。


「何をしに来た」


女は、手にした剣を見下ろした。


「あなたに、もう一度失ってもらうためよ」


次の瞬間、女の姿が消えた。


師匠の剣が閃く。


金属音が響き、火花が散った。


女の刃のない剣と、師匠の剣がぶつかり合っていた。


「アスト! 離れろ!」


師匠の叫びに、アストは後方へ飛び退いた。


師匠は女を押し返し、そのまま踏み込む。


一撃。


二撃。


三撃。


剣閃が夜の森を切り裂いた。


女の黒髪が揺れ、衣装の裾が裂ける。


仮面も鎧もない。


それでも女の表情は変わらなかった。


「……腕は鈍っていないようね」


「黙れ!」


師匠の剣が女の胸元を捉えた。


女の身体が後方へ吹き飛び、木々をなぎ倒して地面に転がる。


師匠は追撃の構えを崩さなかった。


しかし、女は何事もなかったかのように立ち上がった。


裂けた衣装を気にする様子もなく、乱れた黒髪を指先で払う。


「そう。その目よ」


女は、どこか懐かしむように師匠を見つめた。


「あなたは昔から、そうやって大切なものを守ろうとしていた」


「何が言いたい」


「あなたが強いことは知っているわ。だからこそ、私はここに来たの」


女は刃のない剣を持ち上げた。


「あなたが積み上げてきたものを、もう一度、失わせるために」


師匠が地を蹴った。


再び、二人の剣がぶつかり合う。


師匠は強かった。


アストが三か月の修行で見てきたどの剣技よりも鋭く、迷いがなかった。


だが、戦いが続くにつれ、少しずつ異変が起こり始めた。


師匠の足が、わずかにもつれる。


剣を受ける角度がずれる。


先ほどまで見切っていた攻撃に、反応が遅れる。


そして、何よりも。


師匠の剣から、戦いの流れを読む鋭さが失われていった。


「師匠……?」


女は剣を振るいながら、静かに告げた。


「あなたは長い年月をかけて強くなった。幾度も敗れ、幾度も立ち上がり、そのたびに剣を磨いてきた」


師匠の剣が弾かれる。


女は追撃を加えながら、言葉を続けた。


「敗北から学んだこと。死線を越える中で身につけた感覚。仲間とともに戦い、勝ち取った経験」


一撃。


師匠が後退する。


「それらはすべて、あなたの中に刻まれていた」


さらに一撃。


師匠の剣が、軌道を外れた。


「でも、その記憶を失えばどうなるのかしら?」


師匠の目が見開かれた。


「……お前、俺の……」


「ええ」


女は微笑んだ。


「あなたが築き上げたものを、少しずつ失わせているの」


師匠は歯を食いしばり、剣を握り直した。


「……ふざけるな。俺の剣は、そんなものだけでできているんじゃない」


「そうね」


女は、あっさりと頷いた。


「だから、確かめているの。あなたからそれらを失わせても、最後に何が残るのか」


その言葉には、憎しみも、嘲りもなかった。


純粋な興味。


それが、かえってアストの背筋を冷たくした。


「ならば、証明してみろ」


師匠が踏み込む。


女は迎え撃った。


だが、刃がぶつかった瞬間、師匠の身体が大きく弾き飛ばされた。


地面を転がり、木の幹に叩きつけられる。


「師匠!」


アストは駆け出しかけた。


「来るな!」


師匠の怒声に、足が止まる。


師匠は地面に落ちた剣を拾い、ゆっくりと立ち上がった。


肩で息をしながら、それでも剣を構える。


「……俺は、何かを忘れたのかもしれない」


低い声だった。


「自分が誰だったのか。何を成し遂げたのか。誰と一緒にいたのか」


女は黙って聞いていた。


「だがな」


師匠は剣先を女へ向けた。


「今、目の前にいる弟子を守る。それだけは、忘れていない」


その言葉と同時に、師匠が踏み込んだ。


一切の無駄を捨てた、渾身の一撃。


女の剣を弾き、頬に傷を刻む。


そして、胸元へ刃を突き立てた。


女の身体が、わずかに揺れた。


頬から、一筋の血が流れる。


女はそれを指先で拭い、赤く染まった指を見つめた。


「……そう」


その瞳が、ほんのわずかに細められた。


「あなたは、まだ失いきっていないのね」


だが、女は倒れなかった。


師匠の剣が、ゆっくりと押し戻されていく。


「それでも、あなたは失うわ」


刃が動いた。


師匠の脇腹が深く裂かれる。


血が地面に落ちた。


「師匠!」


アストの視界が揺れる。


女が師匠へと剣を振り下ろした。


師匠は受け止めようとした。


しかし、その身体は、もう以前のようには動かなかった。


剣が肩を裂き、師匠は膝をついた。


「やめろおおおおっ!」


アストの中で、何かが弾けた。


師匠が死ぬ。


その未来だけは、受け入れられなかった。


世界が歪む。


女の動きが、一瞬だけ途切れた。


そのわずかな隙に、アストは地面を蹴った。


師匠のもとへ飛び込み、女の剣を弾き返す。


「……っ!」


衝撃で腕が痺れた。


それでも、アストは退かなかった。


今の力は、偶然ではない。


自分の意思で発動させた。


相手の動作から、ほんのわずかな時間を奪う力。


時間剥奪。


その名が、なぜか頭に浮かんだ。


女は、ゆっくりと剣を構え直した。


「……なるほど」


彼女はアストを見つめた。


「あなたも、その力を持っているのね」


アストは答えなかった。


師匠を背にかばい、剣を構える。


「師匠には、指一本触れさせない」


女はしばらくアストを見つめていた。


やがて、初めて興味深そうに微笑んだ。


「その目……あなたも、何かを失うことになるのかしら」


「……黙れ」


「いいえ。私はただ、知りたいだけ」


彼女は首を傾げた。


「人は何かを失ったとき、何を失ったのかさえ分からなくなることがある。それでも、人は悲しむのね」


まるで、理解できない現象について語るような口調だった。


「不思議だと思わない?」


アストは剣を握りしめた。


「お前に、何が分かる!」


女は答えなかった。


ただ、静かに微笑んだ。


黒い霧が、彼女の足元から立ち上る。


「力を得るということは、何かを失うということ」


霧が森を覆っていく。


「その力を使い続ければ、あなたもいずれ、大切なものを失うでしょうね」


アストは一歩踏み出そうとした。


だが、霧が視界を遮る。


「……待て!」


「また会いましょう、アスト」


名前を呼ばれ、アストの動きが止まった。


なぜ、この女が自分の名前を知っているのか。


問いただそうとしたときには、もう遅かった。


女の姿は、霧の中へ溶けていた。


「そのとき、あなたが何を失っているのか……私にも教えてちょうだい」


声だけが、森に残った。


次の瞬間、女の気配が消えた。


森に、風が戻る。


遠くで虫が鳴き始めた。


だが、アストには、そんな音も耳に入らなかった。


師匠の身体が崩れ落ちたからだ。


「師匠!」


慌てて抱き止める。


脇腹と肩の傷は深く、衣服は血で染まっていた。


呼吸は浅く、顔から血の気が失われている。


「しっかりしてください! 今、手当てを……!」


アストは震える手で傷口を押さえた。


止血しなければ。


何か、助ける方法を探さなければ。


しかし、どれだけ押さえても、血は止まらなかった。


「……アスト」


「しゃべらないでください!」


「いい」


師匠は、かすかに笑った。


「もう……いいんだ」


「よくないです!」


声が裏返った。


「まだ教わってないことが、たくさんあるんです! 俺、まだ全然……師匠みたいに強くなれてないのに……!」


師匠は、何かを言おうとした。


しかし、声にならなかった。


その目が、夜空へ向けられる。


雲の切れ間から、星が見えていた。


しばらくして、師匠の表情が変わった。


まるで、長い間閉ざされていた扉が、ようやく開いたかのように。


「……そうか」


その目に、確かな光が戻った。


「思い出した……」


アストは息を呑んだ。


「何を……?」


師匠は、遠い過去を見つめるように目を細めた。


「昔、一緒に戦った仲間がいた」


かすれた声だった。


「馬鹿みたいに騒がしくて……いつも俺を引っ張り回して……」


口元に、懐かしそうな笑みが浮かぶ。


「それから……大切な人がいた」


その瞬間、師匠の目から涙がこぼれた。


「約束を……したんだ」


震える手が、アストの腕をつかむ。


「必ず、帰るって……」


どこへ。


誰のもとへ。


その答えを、師匠はようやく思い出したのだろう。


だが、その約束を果たすための時間は、もう残されていなかった。


「……結局、帰れなかったな」


師匠は、静かに笑った。


「悪いことを……した」


アストは何も言えなかった。


師匠が誰と約束をしたのか。


なぜ帰れなかったのか。


その答えを知りたかった。


けれど、今は聞けなかった。


聞いてしまえば、本当に最後になってしまう気がした。


「アスト」


「……はい」


「お前は……俺みたいになるな」


師匠の手に、わずかに力がこもる。


「何かを守るために強くなるのは、悪いことじゃない。だが……強さだけを追いかけるな」


師匠は、アストの目を見つめた。


「自分が誰を大切にしていたのか。何のために戦うのか。それだけは……忘れるな」


「師匠……!」


「それから……」


師匠は、苦しそうに息を吸った。


「俺が忘れていたものまで……お前が背負う必要はない」


アストの頬を、涙が伝った。


「俺は……あなたの弟子です」


震える声で、そう告げる。


「だから、あなたから教わったことを……絶対に忘れません」


師匠は、ほんの少しだけ目を見開いた。


そして、穏やかに微笑んだ。


「……そうだったな」


その声を最後に、師匠の手から力が抜けた。


「……師匠?」


返事はない。


「師匠……?」


何度呼びかけても、身体を揺さぶっても、もう返事はなかった。


アストは、動けなかった。


目の前の現実を、理解することができなかった。


つい数時間前まで、隣にいた人だ。


無茶な試練を押しつけてきて、何度も怒鳴って、いつも大切なことを最後まで教えてくれない人だった。


それでも、振り返れば必ずそこにいた。


自分が迷ったとき、進むべき道を示してくれた。


自分が倒れたとき、何度でも立ち上がらせてくれた。


その人が、もういない。


「……嫌だ」


声が漏れた。


「嫌だよ……師匠……」


アストは、その身体を強く抱きしめた。


涙が止まらなかった。


やがて、空が白み始めた。


夜の森に朝の光が差し込んでも、アストは動かなかった。


師匠の身体を抱きしめたまま、ただ泣き続けた。


どんな修行をしたのか。


どんな言葉を交わしたのか。


どんな日々を一緒に過ごしたのか。


思い出は、確かにそこにある。


なのに、今はそれを振り返ることさえ苦しかった。


それでも、ひとつだけ分かっていた。


この人は、自分にとって、かけがえのない存在だった。


そして、最後に託された言葉を、忘れてはいけない。


アストは、ゆっくりと顔を上げた。


師匠の剣を拾い上げる。


柄には、長い年月を共に過ごした者だけが刻めるような、細かな傷が無数に残っていた。


何度も握り直された跡。


戦いの中でついた刃こぼれ。


それらすべてが、師匠の歩んできた時間を物語っていた。


アストは両手で剣を握りしめた。


まだ、自分には重すぎる。


技術も、経験も、師匠には遠く及ばない。


それでも、この剣を置いていくことはできなかった。


師匠が生きてきた証を、自分の手でつないでいきたかった。


「……借ります、師匠」


涙を拭い、静かに告げる。


「いつか、この剣を使いこなせるようになります」


答える声はない。


それでもアストは、師匠の剣を腰に携えた。


自分の力の正体も。


喪失の使徒が何者なのかも。


師匠が歩んできた過去も。


なぜ、あの女は師匠を狙ったのか。


なぜ、師匠は大切な人との約束を果たせなかったのか。


答えは、どこにもなかった。


それでも、ひとつだけ決めた。


いつか、あの使徒と再び対峙する。


そして、師匠が失ったものの意味を知る。


ただ強くなるためではない。


誰かを倒すためだけでもない。


大切なものを守り、失ったものから目をそらさずに生きるために。


アストは、師匠の剣に手を添えた。


夜明け前の森を、まっすぐに見つめる。


その隣に、もう師匠の姿はない。


それでも、教わった言葉は残っている。


――自分が誰を大切にしていたのか。何のために戦うのか。それだけは忘れるな。


アストは、ゆっくりと歩き出した。


師匠の剣と、胸に刻まれた教えを携えて。


師匠のいない旅が、始まろうとしていた。

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