第10話 「師匠と弟子」
朝の森に、剣戟の音が響いていた。
「遅い」
「っ……!」
アストの剣が弾かれた。
体勢を崩した瞬間、目の前に木剣が迫る。
慌てて身を引いたが、間に合わなかった。
鈍い音とともに、木剣が肩を打つ。
「今日はここまでだ」
「ま、待ってください! もう一度だけ!」
アストは痛む肩を押さえながら立ち上がった。
師匠は面倒くさそうに息を吐く。
「何度やっても同じだ。今のお前は、剣を振ることばかり考えている」
「でも、攻撃しなきゃ勝てません」
「勝つことと、斬ることは同じじゃない」
師匠は木剣を地面に放った。
「相手を見ろ。剣だけじゃない。足の運びも、呼吸も、目線もだ。相手が何をしようとしているのか、考える前に気づけ」
「そんなの、どうやって……」
「自分で考えろ」
いつもの答えだった。
アストは悔しそうに唇を噛んだ。
この数日、何度挑んでも一度も勝てていない。
未来を見る力が目覚めたときは、これで少しは強くなれると思った。
だが、あの力は自由に使えるものではなかった。
意識して未来を見ようとしても、何も起こらない。
それどころか、力を使ったあの日から、家族との記憶に時折、奇妙な空白を感じるようになっていた。
強くなりたい。
けれど、何かを失いながら強くなることが、本当に正しいのか。
今のアストには、答えが出せなかった。
「……師匠」
「なんだ」
「俺、強くなれますか」
師匠の足が止まった。
アストは視線を落としたまま続ける。
「神託の祭壇では、俺だけ何の価値もないみたいな判定をされました。みんなは特別な力を持っているのに、俺は何もない」
握った拳に力が入る。
「このまま努力しても、追いつけないんじゃないかって……時々、思うんです」
森を風が吹き抜けた。
師匠はしばらく黙っていた。
「……お前は、何のために強くなりたい」
「それは……」
アストは言葉に詰まった。
仲間たちに追いつきたい。
誰かに認められたい。
もう二度と、何もできない自分を味わいたくない。
理由はいくつもあった。
けれど、本当に一番大切なものは、まだ言葉にできなかった。
「分かりません。でも、今のままじゃ嫌なんです」
師匠はアストを見つめた。
「なら、考え続けろ」
「……それだけですか?」
「強さの意味も分からない奴に、強くなる方法だけ教えても意味がない」
突き放すような言葉だった。
それでも、師匠は立ち去らなかった。
「今日はもう終わりだ。飯にするぞ」
そう言って、男は森の奥へ歩き出した。
アストは慌てて、その背中を追いかけた。
*
昼過ぎ。
二人は小さな川のそばで休んでいた。
アストが焚き火の準備をしていると、師匠が隣に腰を下ろした。
「肩を見せろ」
「え?」
「さっき打たれただろう」
「これくらい、大丈夫です」
「いいから見せろ」
逆らえる雰囲気ではなかった。
アストが上着をずらすと、肩には赤い痕が残っていた。
師匠は懐から薬草を取り出し、慣れた手つきで傷に塗った。
「痛っ……!」
「我慢しろ」
「もう少し優しくできないんですか……」
「剣を振るときに、相手が優しくしてくれると思うか?」
「そういう話じゃないんですけど……」
思わず口を尖らせる。
師匠は何も言わず、手当てを続けた。
その手つきは、意外なほど丁寧だった。
やがて手当てを終えると、男は立ち上がった。
「今日はもう剣を振るな」
「えっ。でも、まだ練習が……」
「休むのも修行のうちだ」
そう言って、師匠は川辺を離れていった。
アストはその背中を見つめた。
いつも厳しく、必要なことしか話さない。
それなのに、傷の手当てはしてくれる。
自分が気づいていないだけで、この男は案外、周りをよく見ているのかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと疑問が浮かんだ。
「……師匠は」
男が足を止めた。
「どうして、俺に剣を教えてくれるんですか?」
風が木々を揺らした。
師匠はすぐには答えなかった。
「一つだけ、教えてやる」
「それは聞きましたけど……」
「だから、一つだけだ」
男は再び歩き始めた。
アストは慌てて後を追う。
結局、その答えは教えてもらえなかった。
*
その夜。
焚き火を挟んで、二人は向かい合っていた。
アストは焼いた肉を頬張りながら、昼間のことを思い出していた。
もっと強くならなければならない。
その思いは変わらない。
だが、ただ強くなるだけでは駄目なのかもしれない。
師匠の言葉が、頭の中で繰り返される。
強さの意味も分からない奴に、強くなる方法だけ教えても意味がない。
「……師匠」
「今度はなんだ」
「師匠は、何かを守るために剣を振ったことがありますか?」
男の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、アストは確かに気づいた。
「……ああ」
短い返事だった。
「守れたんですか?」
焚き火が爆ぜた。
師匠は炎を見つめたまま、答えなかった。
やがて、低い声が落ちる。
「剣が強ければ、何でも守れると思っていた」
アストは黙って聞いていた。
「だが、そうじゃなかった」
男の表情は、炎の影に隠れて見えなかった。
「……何があったんですか?」
「昔の話だ」
それ以上、師匠は語らなかった。
アストも、それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
しばらくして、師匠が立ち上がった。
「明日は早い。もう寝ろ」
「明日、何かあるんですか?」
「少し、確かめたいことがある」
「何をですか?」
師匠は答えず、外套を手に取った。
そして、眠りにつく直前。
「アスト」
初めて、名前を呼ばれた。
「はい?」
「明日は、俺から離れるな」
アストは目を見開いた。
いつもなら、何があっても自分で考えろと言う男だった。
それなのに、今夜は違った。
「……分かりました」
アストは静かに頷いた。
焚き火が小さく揺れている。
師匠は背中を向け、目を閉じた。
アストはその背中を見つめながら、思った。
この人にも、忘れられない何かがあるのだろうか。
守れなかった誰かがいるのだろうか。
その答えを知るのは、まだ先のことだった。
ただ、明日もこの人のそばで剣を学べる。
今は、それだけでよかった。




