第8話 当面の金策(3)
レロスの机の上に、一枚の紙が置かれていた。
そこには日付と仕事の予定が書き込まれている。
講習。
運搬。
休み。
そして、仕事を受ける前に確認する項目。
最初に作った予定表は、何度も書き直され、今ではずいぶん見やすくなっていた。
「……明日は講習。明後日は空き。三日後に運搬か」
『確認しました』
「で、今日の午後は何もない、と」
『共有された予定では、そのとおりです』
「よし」
レロスは紙を机に置いた。
あの失敗から数日が過ぎていた。
銅貨六枚の違約金。
思い出すだけで少し腹が立つ。
だが、今ではあの失敗にも意味があったと思えるようになっていた。
少なくとも、同じ日に二つの仕事を入れることはなくなった。
ギルドで依頼を受けるときは、必ず予定表を確認する。
新しい仕事が決まれば、日時と内容をエーアイに伝える。
変更があれば、その都度記録する。
最初は面倒だった。
しかし、慣れてしまえば大した手間ではない。
「……こういうの、案外便利だな」
『記録によって、記憶に頼る必要が減っています』
「そうそう。あと、仕事がない日も分かるから、次の予定を入れやすい」
『その点も利点です』
レロスは満足げにうなずいた。
以前なら、仕事が見つかればすぐに飛びついていた。
明日の飯が心配だったからだ。
だが、今は少し違う。
いつ仕事があるのか。
どのくらい稼げるのか。
休む日はあるのか。
そうしたことを考える余裕が生まれていた。
もっとも、予定表を作ったからといって、仕事が勝手に増えるわけではない。
そこは相変わらず、自分で動く必要があった。
「さて、ギルドに行くか」
『新しい仕事を探しますか』
「ああ。明後日が空いてるからな」
レロスは予定表を折りたたみ、革袋に入れた。
そして、安宿ヴォルガを出た。
ギルドへ着くと、受付係が顔を上げた。
「あら、レロスさん。今日はどうされました?」
「明後日の仕事を探しに来ました」
「運搬ですか?」
「それも考えてますけど、ほかに何かあれば」
受付係は予定表を確認した。
「そうですね……明後日は臨時の運搬要員の募集が一件あります。ただ、少し遠い場所ですね」
「どのくらいですか?」
「往復で一日。帰りは日が暮れる頃になると思います」
「報酬は?」
「手取りで銅貨十二枚です」
レロスは考えた。
金額はいつもと同じ。
だが、移動距離は長い。
帰りが遅くなるなら、翌日の講習に影響するかもしれない。
「……ちょっと確認してもいいですか?」
「もちろんです」
レロスは依頼書を受け取り、内容を読み上げた。
エーアイに相談するためだ。
『翌日に講習が予定されていますね』
「ああ」
『移動時間が長い場合、疲労が翌日の仕事に影響する可能性があります』
「……そうだよな」
『また、報酬は通常の運搬依頼と同額です。距離が長い分、負担が増える可能性があります』
「だったら、今回はやめとくか」
『判断はマスターにお任せします』
レロスは依頼書を返した。
「すみません。今回は見送ります」
「分かりました」
受付係はうなずいた。
「無理に受けなくても大丈夫ですよ。ほかの仕事が出たら確認してみてください」
「はい」
レロスは掲示板の前へ向かった。
以前なら、こんな仕事でも飛びついていただろう。
銅貨十二枚。
それだけあれば、二日分の生活費を払っても金が残る。
断るなんて、もったいない。
そう思っていたはずだ。
だが、今は少し考え方が変わっていた。
無理をして翌日の講習で失敗すれば、信用を失うかもしれない。
怪我でもすれば、もっと大きな損失になる。
「……仕事って、受ければいいってもんじゃないんだな」
『はい。収入だけでなく、負担や危険度も考慮する必要があります』
「前は金額しか見てなかったなあ」
『現在は、複数の条件を比較して判断しています』
「少しは成長したってことか?」
『判断方法には変化が見られます』
「……レベルは1のままだけどな」
『はい』
「そこは否定してくれてもいいんだぞ」
『事実と異なる回答はできません』
「分かってるよ!」
レロスは笑った。
その日の午後は、結局仕事を入れなかった。
代わりに市場へ向かい、薬草の値段を確認することにした。
昨日までと違って、焦って買うつもりはない。
安く売られているものがあっても、買い手がいなければ意味がない。
そのことは、すでに学んでいる。
「……今日はあんまり安くないな」
『購入価格と売却価格の差が小さい場合、利益が得られない可能性があります』
「ああ。今日は見送ろう」
レロスは薬草の束を棚へ戻した。
店主は少し残念そうな顔をしたが、無理に買う必要はない。
そのまま市場を歩いていると、見覚えのある新人冒険者に声をかけられた。
「あっ、先生!」
「……だから、先生じゃないって」
振り返ると、以前の講習に参加していた若者だった。
手には依頼書を持っている。
「ちょうどよかった。この依頼、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
「報酬が銅貨二十枚って書いてあるんだけど、これって一人二十枚?」
レロスは依頼書をのぞき込んだ。
「いや、これはパーティー全体で二十枚だな」
「えっ、そうなの?」
「ああ。ここに総額って書いてあるだろ」
「あ、本当だ……」
若者は頭をかいた。
「危なかった。四人で受けるところだったよ」
「四人なら、均等に分けて一人五枚だな。そこから必要な道具の代金を出すなら、もっと減るぞ」
「うわ、全然違うじゃん」
「ちゃんと確認しとけよ」
「ありがとう、先生!」
若者は手を振って走っていった。
レロスはその背中を見送った。
「……あいつ、昔の俺みたいだな」
『どの点が似ていますか』
「報酬のこと、ちゃんと確認してないところ」
レロスは苦笑した。
以前の自分も、依頼書を読めるくせに、肝心なところを確認していなかった。
パーティーのリーダーが大丈夫だと言えば、それを信じていた。
後から報酬が減らされても、仕方がないと思っていた。
今なら、もう少し違う行動ができる気がする。
「……ああいうの、もっと教えた方がいいのかな」
『初心者にとって有益な情報だと考えられます』
「でも、講習の時間には限りがあるんだよな」
『担当講師に提案してみてはいかがでしょうか』
「……そうするか」
次の講習の日。
レロスは担当講師に、依頼報酬の確認について話してみた。
「報酬の総額と、一人の取り分を間違える新人が結構いるみたいなんです」
「そうですね。毎年、何人かいますよ」
「だったら、計算問題だけじゃなくて、実際の依頼書を使って説明した方がいいんじゃないかと思って」
担当講師は少し考えた。
「なるほど。では、次の講習で試してみましょうか」
「えっ、いいんですか?」
「ええ。実際に現場で困ることを教えるのは大切ですから」
レロスはうなずいた。
その日の講習では、報酬の計算に加えて、依頼書の注意点も説明した。
報酬が総額なのか、一人分なのか。
必要経費は誰が負担するのか。
期限に遅れた場合はどうなるのか。
参加者たちは、思った以上に真剣に聞いていた。
「先生、これって途中で依頼をやめたらどうなるんですか?」
「それは契約によるな。勝手にやめたら違約金が出ることもある」
「へえ……」
「だから、引き受ける前にちゃんと確認するんだ」
レロスはそう言いながら、少し苦笑した。
銅貨六枚の違約金。
あの失敗が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
講習が終わった後、担当講師が声をかけてきた。
「今日の説明、よかったですよ」
「本当ですか?」
「はい。実際に仕事を経験している人の話は、初心者にも伝わりやすいですから」
レロスは照れくさくなった。
「……失敗談も多いですけどね」
「それも立派な経験ですよ」
その言葉に、レロスは少し驚いた。
失敗も経験。
エーアイにも似たようなことを言われた。
けれど、人間から言われると、また違った響きがあった。
それから、レロスは仕事を続けた。
講習の日には文字と計算を教える。
運搬の日には荷物を守り、契約した役割を果たす。
空いた時間には依頼を調べ、必要なら薬草の相場を確認する。
そして、毎晩予定表を見直した。
仕事が増えれば、収入も増える。
だが、疲れがたまれば休む。
条件の悪い仕事は無理に受けない。
少しずつ、自分なりの働き方ができてきた。
ある夜。
レロスは安宿ヴォルガの部屋で、革袋を机の上に置いた。
「……よし、数えるぞ」
『はい』
銅貨を十枚ずつ並べていく。
十枚。
二十枚。
三十枚。
数が増えるにつれて、レロスの声も弾んでいった。
五十枚。
六十枚。
七十枚。
八十枚。
九十枚。
そして。
「……百枚!」
レロスは思わず声を上げた。
隣の部屋から壁を叩く音がした。
「……あ、悪い」
慌てて声を落とす。
もう一度、銅貨を数え直した。
間違いない。
百枚ある。
しかも、それだけではなかった。
机の端には、別に銅貨が残っている。
明日以降の生活費として、取り分けておいた金だ。
「……エーアイ」
『はい』
「貯まったぞ」
『銅貨百枚ですね』
「ああ。生活費とは別に、百枚」
『当初の目標を達成しました』
レロスはしばらく硬貨を見つめていた。
銀貨一枚。
最初に目標を聞いたときは、途方もない金額に思えた。
銅貨八枚しか持っていなかった日を思い出す。
明日の宿代すら心配だった。
仕事を探しても、レベル1だと笑われた。
パーティーに入れてもらっても、いつ追い出されるか分からなかった。
そんな自分が、銀貨一枚を貯めた。
もちろん、まだ銀貨に替えたわけではない。
だが、百枚の銅貨が目の前にある。
それだけで十分だった。
「……何か、すごいな」
『目標を達成したのは、マスター自身の行動によるものです』
「お前が教えてくれたんだろ」
『私は選択肢を提案しました。実際に仕事を探し、契約し、働いたのはマスターです』
レロスは少し黙った。
確かに、そうだった。
エーアイがいくら立派なことを言っても、実際に動かなければ何も変わらない。
講習の試験を受けたのも。
荷物を運んだのも。
失敗して違約金を払ったのも。
全部、自分だった。
「……そっか」
レロスは笑った。
「じゃあ、二人で頑張ったってことにしようぜ」
『承知しました』
「そこは素直なんだな」
翌日。
レロスはギルドへ向かった。
受付で、銅貨百枚を銀貨一枚に交換してもらう。
差し出された銀貨は、思っていたより小さかった。
けれど、手のひらに載せると、不思議な重みを感じた。
「……これが銀貨一枚か」
レロスは何度も裏返して眺めた。
銅貨百枚を持ち歩くより、ずっと軽い。
だが、その一枚を手に入れるまでに、どれだけ働いたことだろう。
「なあ、エーアイ」
『はい』
「これ、使わずに取っておこうと思う」
『貯蓄として保管するということですね』
「ああ。生活費は別にあるし」
『承知しました』
「……でもさ」
レロスは銀貨を握りしめた。
「銀貨一枚じゃ、まだ大したことはできないよな」
『用途によります。現在の生活費で換算すると、約二十日分に相当します』
「二十日……」
レロスは驚いた。
銀貨一枚。
そう聞くと、小さな金額に思える。
だが、二十日分の生活費だと言われると、印象が変わった。
「……そんなに暮らせるのか」
『現在の支出が変わらず、追加の出費がなければ、という条件です』
「分かってるよ」
レロスは銀貨を革袋にしまった。
以前なら、仕事を失えばすぐに困っていた。
今は、少しだけ余裕がある。
嫌な仕事を断ることもできる。
次の仕事を探す時間もある。
何より、明日の飯を心配せずに眠れる。
それが、こんなにも気持ちを軽くするとは思わなかった。
「……もっと貯めたいな」
『新しい目標を設定しますか』
「ああ。でも、今度は金を増やすだけじゃなくて、使い方も考えたい」
『具体的には、どのようなことでしょうか』
「宿代とか、飯代とかさ。毎日結構かかってるだろ」
『現在の生活費は、一日あたり銅貨五枚です』
「そう。それをもう少し減らせないかなって」
『住居費と食費の見直しが考えられます』
「住居費?」
『宿泊費です』
「ああ、宿代か」
レロスは天井を見上げた。
安宿ヴォルガ。
これまで何度も世話になってきた場所だ。
雨風をしのげる寝台があり、夜になれば安心して眠れる。
今の自分には十分だった。
だが、毎日銅貨三枚を払っている。
一か月も続けば、それなりの金額になる。
「……もっと安く住める場所って、あるのかな」
『長期間居住する場合、宿泊施設より住居を借りる方が安くなる可能性があります』
「部屋を借りるってことか?」
『はい。ただし、初期費用や設備の購入費用も考慮する必要があります』
「……また難しい話になりそうだな」
『必要であれば、比較方法を説明します』
「今日はいいや」
レロスは笑った。
「せっかく銀貨一枚貯まったんだ。今日はちょっとくらい喜ばせてくれよ」
『おめでとうございます』
「……うん。ありがとう」
今度は、素直に受け取れた。
ギルドを出ると、街には夕暮れの光が差していた。
行き交う冒険者たちの姿が見える。
大きな剣を背負った戦士。
杖を持った魔法使い。
仲間と笑いながら歩く若者たち。
レロスは、その光景をしばらく眺めていた。
自分も、あんなふうに冒険したかった。
いや。
今でも、そう思っている。
生活が安定したからといって、冒険者になる夢を諦めたわけではない。
むしろ、以前よりも強く思うようになっていた。
誰かに拾ってもらうのではなく。
役立たずだと罵られながら、荷物を運ぶのでもなく。
自分の意思で仲間を選び、自分の足で冒険へ出る。
そんな日が、いつか来るだろうか。
「……なあ、エーアイ」
『はい』
「俺、やっぱり冒険者になりたいよ」
『理解しています』
「今は金を稼ぐので精いっぱいだけどさ。いつか、ちゃんとした仲間を見つけて……」
そこで、レロスは言葉を止めた。
何度も追放された記憶が、頭をよぎる。
信じていた相手に裏切られたこともある。
もう、誰かを簡単に信じるのは怖かった。
けれど、一人ではできないことがある。
それも、嫌というほど知っている。
『マスター』
「ん?」
『今すぐ結論を出す必要はありません』
「……そうだな」
『まずは、現在の生活を維持しながら、次の目標を考えていきましょう』
「ああ」
レロスはうなずいた。
レベル1の自分が、強い冒険者になることはできない。
それは、四年前から変わらない現実だ。
だが、できることまで同じとは限らない。
薬草を売ることができた。
文字を教えることができた。
荷物を運んで、正当な報酬を受け取ることができた。
失敗しても、次に生かすことができた。
そして今日、銀貨一枚を貯めた。
どれも小さなことだ。
けれど、その小さなことを積み重ねれば、いつか何かが変わるかもしれない。
「よし。次は生活費の見直しだな」
『承知しました。まず、現在の支出を整理しましょう』
「……今日はいいって言っただろ!」
『失礼しました』
レロスは笑いながら、安宿ヴォルガへ向かって歩き出した。
銀貨一枚を手に入れたところで、世界が変わるわけではない。
それでも、レロスの世界は確かに変わり始めていた。
そして、その変化はまだ始まったばかりだった。




