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第15話 裏の世界

「これで、しばらくは安心かな」


 レロスは買ったばかりの剣を手入れするリリィを見ながら言った。


 武器を新しくした。


 予備の短剣も用意した。


 司書館へ通い、ギルドでも新しい情報を確認している。


 ゾハルへ来て三か月。


 ガレオンからはかなり離れた。


 冒険者としての生活も軌道に乗り始めている。


『マスター。その認識は適切ではありません』


「え?」


 聞き慣れたエーアイの声だった。


「何か問題があるのか?」


『現在、差し迫った危険を確認しているわけではありません。しかし、安全である可能性が高いことと、安全であることは同義ではありません』


「……どういうこと?」


 リリィも手を止めた。


『マスターたちはガレオンから離れました。しかし、《オクトー》と《モヒート》が現在どこで活動しているのか、私たちは把握していません』


 レロスは黙った。


 オクトー。


 自分を最後に追放したパーティ。


 そしてモヒートは――。


 隣を見る。


 リリィの表情がわずかに曇っていた。


『ガレオンで活動を続けている可能性はあります。しかし、すでに別の街へ移動している可能性もあります』


「でも、ゾハルまで来る理由なんてないだろ?」


『はい。私が把握している情報から判断すれば、その可能性は高くありません』


「なら――」


『ゼロではありません』


 レロスの言葉が止まる。


『絶対に安全であると判断するための情報が、現在の私たちにはありません』


「……絶対なんてない、か」


『はい』


 それは冒険でも同じだった。


 何度倒したレッドボアでも、次も同じように倒せる保証はない。


 知っている魔物でも、知らない行動をするかもしれない。


 だから調べる。


 備える。


「じゃあ、どうすればいい?」


『二つのパーティの現在の活動状況を確認することを提案します』


「ギルドで聞くのか?」


『ギルドが他の冒険者の行動をどこまで開示するかは不明です。また、開示を求めることで、マスターたちが情報を集めている事実が残る可能性があります』


「それは……嫌だな」


『はい。したがって、別の情報源を利用する方法があります』


 レロスは嫌な予感がした。


「もしかして……」


『昨日話した、非公式な情報網です』


「やっぱりか……」


     ◇


「私は……あんまり関わりたくないかな」


 リリィが小さく言った。


「うん。俺もだ」


 即答だった。


 暗部。


 それが具体的にどんな人間たちなのか、レロスは詳しく知らない。


 だからこそ怖かった。


「金のためなら何でもするような連中なんじゃないのか?」


『その認識を裏付ける情報は不足しています』


「でもさ、暗部だぞ?」


『はい』


「危ない薬を売ったり、違法に奴隷を売ったり、人を脅したり……」


『そのような活動を行う者が存在する可能性は否定できません』


「だったら、そんな奴らを使うのは――」


『マスター。暗部は悪なのでしょうか?』


「そりゃ……」


 レロスは口を開いた。


 しかし、その先が出てこない。


「……悪、だろ?」


『では、悪とは何でしょうか?』


「それは……」


 答えられなかった。


 人を殺すこと。


 人の物を盗むこと。


 誰かを騙すこと。


 いくつか思い浮かぶ。


 だが、冒険者だって魔物を殺す。


 護衛依頼なら、人間と戦う可能性だってある。


 国同士が争えば、兵士は敵兵を殺すだろう。


 それらを全部同じ「悪」という言葉でまとめていいのか、レロスには分からなかった。


『私にも、この世界における絶対的な善悪を定義することはできません』


「エーアイにも分からないのか?」


『はい。私はこの世界の法律、慣習、社会制度について現在も学習している途中です。そして、それらを完全に把握したとしても、法律と善悪が常に一致するとは限りません』


「……難しいな」


『はい』


 あっさり肯定された。


 リリィが少しだけ笑った。


「エーアイさんでも、難しいことあるんだね」


『多数存在します』


「そこは自信満々なんだな」


『事実ですので』


 少しだけ空気が軽くなる。


 しかし、問題が消えたわけではない。


「でも、嫌なものは嫌なんだよな」


『はい。それも判断材料の一つです』


「じゃあ、やっぱり使わない方が――」


『マスター。手段合理性という考え方があります』


「しゅだん……?」


『手段合理性です。目的を達成するために、利用可能な手段を比較し、より適切なものを選択する考え方です』


「暗部を使うのが適切ってことか?」


『いいえ。現時点で選択肢から除外する理由がない、という意味です』


 レロスは首を傾げた。


『マスターの目的は、暗部と親しくなることではありません』


「それは絶対に違う」


『はい。目的は、マスターとリリィさんの安全を確保することです』


「……ああ」


『その目的に対して有効であるならば、好ましく感じない手段であっても、危険性と利益を比較した上で利用を検討する価値があります』


「好きになる必要はない?」


『ありません』


「信用する必要も?」


『必要以上に信用することは推奨しません』


 リリィが目を瞬いた。


「使うことを勧めてるのに?」


『利用することと、信用することは別です』


「ああ……」


 レロスにも少し分かった。


 好きだから使うのではない。


 正しいと思うから使うのでもない。


 必要な情報を得る手段として利用できるかどうか。


 それを考える。


『ただし、一つ明確なことがあります』


「何?」


『マスターはリリィさんを危険から遠ざけたいと考えています』


「……ああ」


『リリィさんも、マスターが危険に晒されることを望んでいないと考えます』


「うん」


 リリィが答えた。


 レロスは考えた。


 暗部が正しいのか。


 悪いのか。


 そんなことは、まだ分からない。


 それでも――。


「リリィ」


「うん」


「俺は調べておいた方がいいと思う」


 リリィはすぐには答えなかった。


「……私ね」


「うん」


「あの人たちのこと、もう知りたくないって気持ちもある」


 モヒート。


 仲間だったはずの人間たち。


 傷ついたリリィを置き去りにした者たち。


「でも、何も知らないまま、また突然会うのは……もっと嫌かな」


「分かった」


「レロスは?」


「俺も似たようなもんだよ」


 オクトーのことなど忘れたい。


 だが、自分だけではない。


 今はリリィがいる。


「調べよう」


「うん」


 決めたのはエーアイではない。


 二人だった。


     ◇


『暗部と直接接触する必要はありません』


「そうなのか?」


『はい。仲介者を利用するのが現時点では最適解です』


「仲介者?」


『表社会と暗部の双方に接点を持ち、依頼や情報の受け渡しを行う人物です。直接接触するより、こちらの情報が相手側へ伝わる範囲を限定できます』


「暗部を使うけど、できるだけ近づかない?」


『はい』


「……なんか矛盾してない?」


『いいえ。利用することと、危険に身を晒すことも別です』


「なるほどなあ……」


「エーアイさん、こういうところ妙に冷静だよね」


『私は緊張しませんので』


「それ、ずるくない?」


『仕様です』


 その日の夕方。


 二人はゾハルの一角にある酒場へ向かった。


 怪しげな地下室でもなければ、扉の前に屈強な男が立っているわけでもない。


 普通の酒場だった。


「……ここ?」


『はい』


 中では仕事を終えたらしい男たちが酒を飲んでいる。


 商人らしい者もいれば、冒険者らしい者もいる。


 レロスが想像していた「裏の世界」とはずいぶん違った。


『奥の席にいる男性です』


 エーアイの言葉に従って見る。


 一人の中年男が酒を飲んでいた。


 特別強そうにも、怖そうにも見えない。


「本当に?」


『断定はできません。ただし、これまで得た複数の情報を照合すると、可能性は高いと判断します』


「……行こう」


「うん」


 二人で席へ向かう。


「隣、いいか?」


 男がレロスを見た。


 次にリリィを見る。


「好きにしな」


 二人が座る。


「人を探してるんだ」


「ギルドへ行きな」


「ギルドでは分からないことを知りたい」


 男の目が少しだけ変わった。


「誰だ?」


「冒険者だ」


「名前は?」


「まだ言えない」


 沈黙。


 失敗したか。


 そう思ったところで男が酒を一口飲んだ。


「二組か?」


「え?」


「一人じゃないんだろ」


「あ、ああ」


「何が知りたい?」


 レロスは少し考えた。


「今、どこで活動しているか。最近どんな依頼を受けているか。それと……ゾハルへ来るような動きがないか」


「それだけか?」


「ああ」


「理由は?」


「それも言わないと駄目か?」


 男が初めて少し笑った。


「いや。言わなくていい」


 男は指を三本立てた。


「前金で銀貨三枚」


 三枚。


 安くはない。


 だが払える。


 レロスが財布へ手を伸ばす。


『マスター』


 エーアイの声がした。


『銀貨をもう一枚追加することを提案します』


「……なんで?」


『返報性とシグナリングを利用します』


「……また知らない言葉が二つも出てきたぞ」


『簡潔に説明します。人間には、何かを受け取った場合、それに応じようとする傾向があります。これを返報性と呼びます』


「一枚多く払ったら、いい情報をくれるってことか?」


『保証はありません』


「ないのかよ」


『人間の行動ですので』


「じゃあ、もう一つは?」


『シグナリングです。言葉ではなく行動によって、自分がどのような人物なのかを相手へ伝えます』


「銀貨で?」


『はい。これは信用を銀貨一枚で購入する行為ではありません』


 エーアイは続ける。


『マスターが、情報だけでなく仲介する人間の仕事にも価値を認め、対価を支払う人物であると示します』


「俺がどういう人間なのかを、行動で見せる……」


『はい。特に公式な契約のない関係では、一定の効果が期待できます』


 レロスは財布の中を見る。


 銀貨一枚。


 決して小さな金額ではない。


 だが――。


 四枚の銀貨をテーブルへ置いた。


 男がそれを見る。


「三枚だと言ったぞ」


「ああ」


「数も数えられねえのか?」


「残りの一枚は、あんたに」


 男がレロスを見る。


「俺に?」


「仲介してくれるんだろ?」


 しばらく沈黙があった。


 レロスは妙なことをしてしまったのかと不安になる。


 やがて男が銀貨を手に取った。


「……預かっとくよ」


「頼む」


「パーティの名前を紙に書け。余計なことは書くな」


 言われた通りにする。


 《オクトー》。


 《モヒート》。


 男は二つの名前を確認すると、紙を折り畳んだ。


「十日後」


「ここに来ればいいのか?」


「ああ。同じくらいの時間にな」


「分かった」


「ただし」


 レロスの身体が固くなる。


「何も分からなくても、前金は返さねえ」


「……分かった」


「それでいい」


 話は終わりらしい。


 レロスとリリィは席を立った。


 酒場を出てから、レロスは大きく息を吐く。


「緊張した……」


「私も」


『交渉は問題なく終了したと判断します』


「エーアイは緊張しないからいいよな」


『はい』


「そこは否定してくれよ」


 リリィが笑った。


 その声を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。


     ◇


 二人が去った後。


 男はテーブルに残った酒を飲みながら、四枚の銀貨をもう一度確認した。


 三枚は依頼の前金。


 そして、もう一枚。


「……若い割には、分かってるじゃねえか」


 金額の問題ではない。


 この青年は、情報だけでなく、それを繋ぐ人間にも値段があると理解している。


 少なくとも、仕事が終わった後になって金を惜しむような客ではなさそうだ。


 男は折り畳んだ紙を懐へ入れた。


     ◇


 レロスには、まだ分からない。


 今日の判断が正しかったのか。


 暗部と関わることへの後ろめたさも消えてはいない。


 エーアイに言われたからといって、それを好きになったわけでも、正しいと思えるようになったわけでもない。


 それでも、何も知らないまま「きっと大丈夫だ」と思い込むことは、もうできなかった。


 自分のため。


 そして、隣を歩くリリィのため。


 必要な情報を手に入れる。


 そのために、使える手段を考える。


 選ぶのは自分たちだ。


 善か悪か、その答えはまだ出ない。


 ただ一つ。


 守りたいものを守るために、自分で考えて選んだ。


 レロスたちはその日初めて、表からは見えない世界へ、小さな一歩を踏み入れた。

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