閑話 オクトー(2)
「ぐあっ!」
悲鳴とともに、一人の男が地面へ転がった。
「おい!」
ガルドが叫ぶ。
《オクトー》の仲間の一人だった。
倒した魔物の爪が、最後の瞬間に男の脚を捉えていた。
傷は深い。
「くそっ……油断した……」
「立てるか?」
「無理だ……」
ガルドが舌打ちする。
幸い命に関わる傷ではなかった。
治療を受ければ治る。
だが――。
「しばらく戦うな、だと?」
「ああ」
治療を終えた男が、不満そうに答えた。
「傷が塞がるまでは安静にしろってさ。無理すれば治るのが遅くなるらしい」
「どれくらいだ?」
「分からねえよ。何日か……長けりゃもっとだ」
「ちっ」
ガルドは露骨に顔をしかめた。
「なんだよ、その顔」
「別に」
別に、ではない。
一人欠ければ、それだけ狩りの効率が落ちる。
できないわけではない。
だが危険は増える。
「仕方ねえ。臨時で一人入れるぞ」
「見つかるのか?」
「一人くらいすぐ見つかるだろ」
ガルドはそう言って笑った。
◇
「……誰も来ねえ」
翌日。
ガルドは冒険者ギルドで苛立っていた。
臨時の募集を出した。
条件は悪くない。
一時的な欠員を補うだけだ。
危険な特殊依頼でもない。
それなのに。
「なんで一人も来ねえんだよ!」
「声でけえよ」
仲間の一人が周囲を見る。
何人かの冒険者がこちらを見ていた。
目が合うと、すぐに逸らされる。
「報酬が安いんじゃねえか?」
「相場通りだぞ!」
「じゃあ少し上げれば?」
「なんで俺たちが余計に払わなきゃならねえんだよ」
「一人足りねえからだろ」
「……ちっ」
仕方なく報酬を上げた。
だが――。
来ない。
翌日になっても来ない。
「倍だ!」
「本気か?」
「これなら来るだろ!」
来なかった。
「……三倍だ」
「おい、ガルド」
「三倍なら絶対に来る! これで来ない奴は馬鹿だ!」
募集内容が更新された。
相場の三倍。
条件だけ見れば破格だった。
だが、それでも。
「なんでだよ!」
ガルドが受付近くで声を荒らげた。
「三倍だぞ!? たった数日の仕事だ! なんで誰も来ねえんだ!」
近くにいた冒険者たちが、また視線を逸らす。
ガルドには理解できない。
だが理由は単純だった。
《オクトー》についての噂が広がっていた。
新人のポーターへ、契約にない理由で報酬を減らそうとした。
それを拒否されて揉めた。
ギルド内で手を出し、怪我をさせた。
治療費と補償まで発生した。
事実は、それだけだった。
しかし噂というものは、人から人へ伝わる。
「オクトーって報酬で揉めたところだろ?」
「後から金を減らそうとしたって聞いたぞ」
「新人に手を出したって」
「俺は報酬を払わなかったって聞いたけど」
「それは違うんじゃないか?」
「知らねえよ。でも関わらない方がいいだろ」
どこまでが事実なのか。
そんなことを、一人一人が確認するはずもない。
ましてや臨時加入だ。
同じ条件の仕事なら、わざわざ悪い噂のあるパーティを選ぶ必要はない。
報酬が三倍になれば――。
逆に疑う者まで現れた。
「三倍って怪しくないか?」
「よっぽど誰も来ないんだろ」
「何かあるんじゃねえの?」
高い報酬さえ、信用がなければ不安材料へ変わる。
そのことをガルドは知らなかった。
◇
「ったく、使えねえ奴らばっかりだ」
ガルドは苛立ちながら店へ入った。
武器や防具、冒険に必要な道具を扱う店。
何度も利用している。
「これと、こっちもくれ」
「あいよ」
「あと回復薬も」
必要な物をカウンターへ並べる。
「いつも通りツケで」
店主の手が止まった。
「悪いな」
「あ?」
「今後、オクトーにはツケでは売れねえ」
「……何言ってんだ?」
「現金で頼む」
ガルドはしばらく店主の顔を見た。
「おい」
「なんだ?」
「俺たちが今まで金を払わなかったことがあるか?」
「ないな」
「だったらいいだろ!」
「今までの分はな」
「じゃあ何が問題なんだよ!」
店主はため息をついた。
「こっちにも商売があるんでね」
「意味分かんねえぞ!」
「分からなくてもいい。買うなら現金。嫌なら他へ行ってくれ」
「ふざけんな!」
ガルドがカウンターを叩く。
店主の表情が変わった。
「……店で暴れるなら出ていってくれ」
「ガルド」
仲間が肩を掴んだ。
「やめとけ」
「離せ!」
「いいから!」
結局、必要最低限の物だけを現金で購入した。
店を出る。
「くそっ! あの親父!」
ガルドは振り返って店を睨んだ。
「今まで散々買ってやったのによ!」
「……なあ、ガルド」
「なんだよ!」
仲間の声が妙に低かった。
「金、大丈夫なんだよな?」
「……は?」
「だから、俺たちの分」
「何の話だ?」
「取り分だよ」
ガルドが目を見開く。
「お前まで何言ってんだ!?」
「だってよ、臨時の奴に三倍払うって言ってただろ」
「誰も来てねえんだから払ってねえよ!」
「でも、道具も現金になった」
「だから何だ!」
「金はあるんだよな?」
「当たり前だろ!」
「ならいいけど……」
その言い方が気に入らない。
「俺を疑ってんのか?」
「そうじゃねえよ」
「じゃあなんだ!」
「だから確認しただけだって!」
「俺たちは仲間だろうが!」
「仲間だから聞いてんだろ!」
二人の声が大きくなる。
他の仲間が止めに入る。
「やめろって!」
「こんなところで喧嘩すんな!」
「こいつが!」
「ガルド!」
ガルドは舌打ちした。
何もかもがおかしい。
少し前まで、こんなことはなかった。
ポーターが来ない。
臨時の仲間も来ない。
ツケが使えない。
挙句の果てには、仲間まで金の心配を始めた。
「……くそ」
だが。
まだ手はある。
ガルドには、表では使えない伝手があった。
◇
夜。
ガルドは一人で街の裏通りへ向かった。
人通りが少ない。
何度か周囲を確認し、一軒の店へ入る。
表向きは何の変哲もない店だった。
だが、ガルドが用があるのは店そのものではない。
「久しぶりだな」
奥にいた男へ声をかける。
以前から何度か取引をしたことがある。
ギルドを通せない品。
表では頼みにくい仕事。
詳細を他人に知られたくない取引。
金さえ払えば、融通が利く。
少なくともガルドは、そう考えていた。
「ちょっと頼みがある」
「……ガルドか」
「ああ」
男の反応が妙だった。
「実は――」
「すまない」
「あ?」
「今後、あんたたちとは取引しないことになった」
ガルドの思考が止まった。
「……何?」
「そういうことだ」
「待て待て。何の冗談だ?」
「冗談じゃない」
「金ならあるぞ」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何だよ!」
男は答えない。
「今までちゃんと払ってきただろ!?」
「ああ」
「なら問題ねえだろ!」
「今までの取引についてはな」
どこかで聞いたような言葉だった。
ガルドの顔が引きつる。
「だったら――」
「ガルド」
男の声が低くなった。
「もう決まったことだ」
「誰が決めた!」
「それを知る必要はない」
「ふざけ――」
怒鳴りかけた。
そこで止まる。
店の奥。
いつの間にいたのか。
二人の男がこちらを見ていた。
冒険者ギルドなら怒鳴れる。
新人なら掴みかかれる。
武器屋の店主なら悪態をついて出ていけばいい。
だが――。
ここでは違う。
ガルドにも、それくらいは分かった。
「……理由くらい教えろ」
「必要ない」
「こっちは客だぞ」
「もう客じゃない」
「っ……!」
拳を握る。
だが振り上げることはできない。
「……分かった」
絞り出すように言った。
踵を返す。
出口へ向かう。
その背中へ、男の声が飛んだ。
「ガルド」
「なんだよ」
「一つだけ教えてやる」
振り返る。
「俺たちの商売はな、表みたいに何でも紙に書いて、何かあれば誰かに訴えられるわけじゃない」
「……」
「だから、誰と取引するかは選ぶ」
「何が言いたい?」
「分からないなら、それでいい」
ガルドは男を睨んだ。
そして何も言わず、店を出た。
◇
ガルドは知らなかった。
表立って契約を交わせない取引ほど、相手が約束を守るかどうかが重要になることを。
金を払う。
約束を守る。
余計なことを話さない。
決めた条件を後から変えない。
公の仕組みに頼れない者たちにとって、それらは時に金以上の価値を持つ。
ガルドは金さえあれば取引できると思っていた。
違った。
ポーターが離れた。
冒険者が離れた。
商人が条件を変えた。
仲間まで疑い始めた。
そして今。
最後の伝手まで切られた。
ガルドは夜道で足を止めた。
「……ま、まずいぞ」
初めて、その言葉が口から漏れた。
だが。
なぜこうなったのか。
その答えだけは、まだ分かっていなかった。
◇
そしてガルドが知らないことが、もう一つあった。
誰が信用できるのか。
誰が信用を失ったのか。
そうした情報に最も敏感なのもまた、表からは見えない世界の住人たちだった。
オクトーとの取引が打ち切られた。
その小さな情報も、やがて別の人間へ伝わる。
そしてさらに別の人間へ。
いくつかの手を経て――。
後日。
その情報は、ある仲介者のもとへと届くことになる。




