第13話 アイリス
『マスター。来ます』
「リリィ、正面!」
「うん!」
赤茶色の巨体が地面を蹴った。
レッドボア。
その名の通り、赤い体毛を持つ大型の猪型魔物だ。
太い牙を突き出し、凄まじい勢いでリリィへ突進する。
『まだです』
リリィは左手の盾を構えたまま動かない。
距離が縮まる。
『今が最適です』
「《フェイント》!」
盾で受けると見せかけ、リリィが身体を横へ滑らせた。
目標を失ったレッドボアが、そのまま駆け抜ける。
「レロス!」
「任せろ!」
進行方向には、あらかじめ細い縄を張ってある。
レッドボアの前脚が引っかかった。
巨体が大きく傾く。
完全に転倒させられるほどの罠ではない。
だが、一瞬でいい。
レロスは地面を蹴った。
「おおっ!」
手にした短剣をレッドボアの左後脚へ突き立てる。
浅い。
それでも、確かに血が流れた。
『マスター、離れる事を推奨します』
「分かってる!」
レロスはすぐに後退した。
体勢を立て直したレッドボアが怒りの声を上げる。
その視線がレロスへ向いた。
「うっ……」
何度経験しても怖い。
レベル1の自分があの牙をまともに受ければ、ただでは済まない。
「こっち!」
リリィが盾を叩く。
レッドボアの注意が彼女へ戻った。
『リリィさん。左後脚をかばう動きを確認しました』
「さっきの傷?」
『その可能性が高いです。ただし断定はできません』
「十分!」
リリィが踏み込む。
牙と盾がぶつかり、鈍い音が響いた。
「くっ!」
押されながらもリリィは倒れない。
レッドボアが再び距離を取った。
前脚で地面を掻く。
『リリィさん。次の突進を《フェイント》で捌いてください。その後の攻撃時には《ベストポジション》が使用可能です』
「了解!」
レッドボアが走り出した。
「《フェイント》!」
リリィが横へ抜ける。
空を切る牙。
そのまま駆け抜けようとしたレッドボアの左後脚が、わずかに遅れた。
『左後脚。現時点では、そこが最も有効である可能性が高いです』
「うん!」
リリィが追う。
「《ベストポジション》!」
剣が左後脚を斬りつけた。
先ほどレロスが傷をつけた場所、その近くだ。
「ブオオオッ!」
レッドボアの巨体が大きく崩れた。
「効いた!」
『まだです』
「分かってる!」
リリィは追撃せず、すぐに距離を取る。
倒れたレッドボアが牙を振り回した。
しばらくして巨体が立ち上がる。
だが、左後脚にはほとんど力が入っていない。
『移動能力の低下を確認しました』
「もう一回、罠まで誘導するか?」
『不要と考えます。現在の状態であれば、リリィさんが安全に討伐できる可能性が高いです』
「リリィ、どうする?」
レロスはリリィを見た。
エーアイの言葉は助言だ。
最後に決めるのは、自分たちだった。
リリィはレッドボアを見据える。
「いける」
「分かった」
それだけで十分だった。
◇
「ふう……」
リリィが剣についた血を拭う。
レッドボアはもう動かない。
「三体目、討伐完了!」
レロスが拳を握った。
これで今日の予定は終わりだ。
一体目、二体目、そして今の三体目。
あとは素材を回収してゾハルへ帰ればいい。
「俺も結構役に立ったよな?」
『はい。マスターが左後脚へ与えた負傷は、その後の戦闘に有効に作用したと考えられます』
「だろ?」
『ただし、純粋な与ダメージを比較した場合、マスターのDPSはリリィさんの――』
「待て」
『はい』
「それ以上は聞かない」
リリィが吹き出した。
「ふふっ」
「笑うなよ」
「ごめん。でも、最初の頃を思い出して」
「最初?」
「エーアイさん、『2.36秒後に《ベストポジション》が使えます』とか言ってたでしょ」
「ああ!」
レロスも思い出した。
「そんなこともあったな」
「2.36秒後に剣を振るとか無理だったね」
『当時は情報伝達方法の最適化が不十分でした』
「今はずいぶん分かりやすくなったよな」
『過去の戦闘記録から、残り時間そのものを伝えるより、次に取るべき行動と組み合わせて伝達したほうが有効であると判断しました』
ゾハルへ来て三か月。
三人はレッドボアを何度も相手にしてきた。
突進する前の仕草。
攻撃後に生まれる隙。
どんな罠が有効で、どんな罠は失敗するのか。
同じレッドボアでも、すべてが同じ動きをするわけではない。
だからエーアイも「絶対」とは言わない。
これまでの情報から、最も可能性が高いものを示す。
それを聞いてレロスとリリィが判断する。
三か月かけて、ようやく今の戦い方になった。
変わったのは戦い方だけではない。
リリィのレベルは8から12になった。
《フェイント》と《ベストポジション》という二つの新しいスキルも覚えた。
《フェイント》は相手を惑わせて動きを崩す。
《ベストポジション》は、その時に防御が疎かになっている場所をうまく攻撃できれば威力を高められる。
どちらも便利だが、何度でも続けて使えるわけではない。
だからこそ、エーアイが使えるタイミングを把握してくれることが大きかった。
装備も変わった。
新しい剣を買うか、盾を買うか。
三人で相談した結果、最初に選んだのはウッドシールドだった。
攻撃力よりも、まずは生き残ること。
派手さはない。
だが今では、この選択でよかったとレロスも思っている。
そして――。
リリィは以前よりもずっと明るくなった。
よく笑う。
よく話す。
そして何より、以前より積極的にレロスへ接してくれるようになった。
「さて、帰るか」
「うん」
『帰還まで警戒を継続してください』
「分かってるよ」
レロスは笑って、レッドボアの素材回収を始めた。
◇
「《アイリス》のお二人、査定が終わりましたよ」
ゾハルの冒険者ギルド。
受付の職員に呼ばれ、レロスとリリィはカウンターへ向かった。
《アイリス》。
それが二人のパーティー名だった。
名前を決めたのはゾハルへ来て間もない頃だ。
正式に二人で活動することになり、何か名前を決めようという話になった。
『《アイリス》はいかがでしょうか』
「アイリス?」
『私の知識に存在する花の名称です。ただし、この世界に同一の植物が存在するかは確認できていません』
「なんかいい響きだな」
「私も好き」
「じゃあ、それにしよう」
そんな簡単なやり取りで決まった名前だった。
それから三か月。
今ではギルドでも、その名前で呼ばれることに慣れてきた。
「レッドボア三体、すべて問題ありません。こちらが今回の報酬と素材の買い取り分です」
「ありがとうございます」
受け取った硬貨をレロスが確認する。
「最近、《アイリス》は安定して討伐依頼をこなしていますね」
「まだレッドボアばっかりですけどね」
「それでも十分ですよ。自分たちに合った依頼を確実にこなす冒険者は、ギルドとしても助かりますから」
その言葉に、レロスは少しだけ嬉しくなった。
以前は依頼を受ける側ですらなかった。
荷物持ち。
雑用。
囮。
そして、何度も追い出された。
今は違う。
自分たちで依頼を選び、自分たちで戦い、報酬を受け取っている。
「あ、それから」
職員が少し声を落とした。
「最近、街の外で冒険者を狙った野盗や盗賊が増えているみたいです」
「冒険者を?」
「ええ。まだこの辺りで大きな被害が出たわけではありませんが、帰り道を狙われたという話もあります。お二人も気をつけてくださいね」
「分かりました」
リリィも頷く。
「ありがとうございます」
◇
「今月も貯金できそうだな」
借りている家へ戻り、レロスは今日の収入を書き込んだ。
『はい。現在の収入と支出であれば、今月も余裕があります』
「宿暮らしだった頃とは大違いだな」
ゾハルへ来てから借りた、小さな家。
豪華ではない。
それでも二人で暮らすには十分だった。
部屋も二つある。
最初の頃は、きちんと一部屋ずつ使っていた。
レロスは自分の部屋。
リリィはリリィの部屋。
それが、いつの頃からだったか。
夜になるとリリィがレロスの部屋を訪れるようになった。
最初は時々だった。
少し話をして、自分の部屋へ戻る日もあった。
やがて一緒に眠る日が増えた。
そして最近では、それがほとんど毎日のことになっている。
「レロス」
「ん?」
振り返ると、リリィがすぐそばにいた。
「今日も、お疲れさま」
「ああ。リリィも」
以前なら、そこで終わっていたかもしれない。
今は違う。
リリィが自分に向けてくれる気持ちを、レロスはもう知っている。
そしてレロスも、その気持ちを受け入れた。
リリィがそっと身体を寄せる。
レロスも自然にその肩を抱いた。
せっかく二つある寝室のうち、最近では片方しか使われない日のほうが多い。
その先のことについて、エーアイが何かを尋ねてくることはなかった。
レベルは1のまま。
それは今も、何一つ変わっていない。
それでも三か月前より、できることは確実に増えた。
仲間と魔物を倒せるようになった。
自分たちのパーティーができた。
ギルドからも少しずつ信用され始めた。
帰る家があり、貯金も増えている。
そして、大切にしたいと思える人がすぐそばにいる。
レベルが上がらなくても。
人生まで、止まっているわけではなかった。




