第10話 リリィという少女
翌朝、レロスは治療院を訪れていた。
昨日助けた青い髪の少女の様子が気になり、いつもより早く目が覚めてしまったのだ。
「昨日、怪我をした女の子を運んできた者ですが……」
「ああ、あなたですね。彼女なら意識も戻っていますよ」
受付の職員に案内され、レロスは病室へ向かった。
扉を軽く叩く。
「……どうぞ」
中から小さな声が返ってきた。
寝台には、昨日の少女が上体を起こして座っていた。
青い髪を片側で束ね、こちらを見つめている。顔色はまだ悪いものの、昨日よりずっと落ち着いて見えた。
「……具合はどう?」
「……あなたは」
「ああ、昨日、路地で……」
「覚えてる。私を助けてくれた人でしょう?」
少女は少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう。助けてくれて」
「いや、無事でよかったよ」
レロスは椅子を借り、寝台の横に座った。
「俺はレロス。君の名前を聞いてもいいかな?」
「……リリィ」
「リリィか。よろしく」
「……うん」
少し沈黙が流れた。
何から話せばいいのか、レロスにも分からなかった。
昨日の彼女は、ただの怪我人ではなかった。
身体の傷以上に、心が傷ついているように見えたからだ。
「治療師さんから、何か聞いてる?」
「傷は治ったけど、しばらく休んだ方がいいって」
そこへ、担当の治療師が入ってきた。
「ちょうどよかった。お二人に説明しておきましょう」
治療師によれば、回復魔法によって外傷は治っているという。
しかし、長期間の疲労や栄養不足までは、一度の魔法で解消できないらしい。
「少なくとも二、三日は無理をさせないでください。食事を取って、よく休むことです」
「分かりました」
レロスはうなずいた。
「……あの、私はもう歩けます」
リリィが遠慮がちに口を挟んだ。
「歩けることと、働けることは違いますよ」
治療師にそう返され、リリィは黙ってしまった。
レロスは思わず苦笑した。
◇
治療院を出る前に、レロスは気になっていたことを尋ねた。
「リリィ、これからどうするつもり?」
「……え?」
「帰る場所はあるのか?」
リリィは答えなかった。
しばらくして、小さく首を横に振った。
「……ない」
「宿とか、知り合いの家とかは?」
「……ないの、お金も持ってないの。全部、パーティーに取られて……」
その声は、昨日と同じくらい弱々しかった。
レロスは少し考えた。
このまま彼女を一人にするわけにはいかない。
しかし、自分にも十分な金があるわけではなかった。
「……あのさ、リリィ」
「なに?」
「嫌じゃなかったら、しばらく俺の部屋に来ないか?」
リリィが目を丸くした。
「……え?」
「いや、変な意味じゃなくて!」
レロスは慌てて両手を振った。
「俺、最近小さな部屋を借りたんだ。寝る場所もあるし、料理もできる。しばらく休むには悪くないと思う」
「でも……私、何も払えない」
「それは気にしなくていい。……って言いたいところだけど、正直に話すよ」
レロスは頭をかいた。
「昨日の治療費で、貯金のほとんどを使っちゃったんだ。だから、別々に部屋を借りる余裕はないんだよ」
「……治療費?」
リリィの表情が変わった。
「あなたが、払ってくれたの?」
「うん。まあ、俺が頼んだ治療だからな」
「……いくら?」
「銀貨二枚」
リリィは言葉を失った。
「……そんな大金、私……」
「返してくれって話じゃないよ」
レロスは首を振った。
「俺が勝手に決めたことだし。リリィに借金を背負わせるつもりもない」
「でも……」
「ただ、一つだけお願いがある」
「……なに?」
「ちゃんと休んでほしいんだ」
リリィは顔を上げた。
「傷が治っても、体力は戻ってないだろ? だから、元気になるまでは無理しないでくれ」
「…………」
「それと、年頃の男女が一緒に暮らすのは、抵抗があると思う」
レロスは少し言いにくそうに続けた。
「もし嫌なら、俺の部屋を使ってくれていい。俺は安宿に戻るから」
「……どうして、そこまで?」
リリィの声が震えた。
「私たち、昨日会ったばかりなのに」
「……そうだな」
レロスは少し考えた。
「昔の自分を見てるみたいだったから、かな」
「……昔の?」
「俺も、何度もパーティーを追い出されてるんだ。詳しい話は、また今度するよ」
リリィはうつむいた。
しばらく考え込んだあと、静かに口を開いた。
「……レロス」
「うん?」
「あなたのこと、信じてもいい?」
レロスはまっすぐ彼女を見た。
「信じてもらえるようにするよ」
リリィは少し驚いた顔をした。
そして、初めて小さく笑った。
「……じゃあ、しばらく、お世話になってもいい?」
「ああ。もちろん」
◇
レロスの部屋に到着すると、リリィは室内を見回した。
小さな寝台と机。
壁際には食器や調理道具が並んでいる。
「……ここが、レロスの部屋?」
「ああ。狭いけど、雨風はしのげるよ」
「……十分だと思う」
リリィはそう言って、ほっとしたように息を吐いた。
「じゃあ、寝台はリリィが使ってくれ。俺は床に寝具を敷くから」
「えっ? でも、ここはレロスの部屋でしょう?」
「そうだけど、今は病人が優先」
「……もう傷は治ってるのに」
「体力は戻ってないだろ。元気になってから文句を言ってくれ」
リリィは少しだけ頬を膨らませた。
「……私が床で寝てもいいのに」
「却下」
「……ふふっ」
小さな笑い声が漏れた。
昨日の路地では、想像もできなかった表情だった。
レロスはそれを見て、少し安心した。
「着替えるときは俺が外に出るし、勝手に荷物を触ったりもしない。困ることがあったら遠慮なく言ってくれ」
「……うん。ありがとう」
リリィは寝台に腰を下ろした。
疲れているのだろう。座っただけで、少し肩を落としている。
「まずは休んでて。昼飯を作るから」
「……レロスが?」
「ああ。最近覚えたばかりだけどな」
レロスは調理場へ向かった。
◇
「エーアイ、ちょっと相談だ」
『はい。どうしましたか』
レロスはリリィに聞こえないよう、小声で話しかけた。
「リリィの食事なんだけど、何を作ればいいと思う?」
『栄養不足が疑われるため、消化のよい食事を少量ずつ取ることを提案します。水分の補給も重要です』
「なるほど。いつものスープでもいいかな?」
『具材を工夫すればよいでしょう。肉や豆類、野菜などを組み合わせてください』
「分かった。……それと、治療師は二、三日って言ってたけど、本当にそれで大丈夫かな」
『外傷の回復と体力の回復は別です。長期間の疲労や栄養不足がある場合、十分な回復にはさらに時間が必要と考えられます』
「じゃあ、一週間くらいは休ませた方がいいか」
『妥当な目安ですが、本人の状態を確認しながら判断してください』
「了解」
レロスは鍋に水を入れ、火にかけた。
干し肉と野菜、それに少量の豆を加える。
少し時間はかかるが、温かいスープができるはずだ。
以前の自分なら、食事は腹を満たせればそれでよかった。
だが、エーアイに教わってからは、栄養の組み合わせも考えるようになっていた。
その知識が、今は誰かの役に立とうとしている。
「……エーアイ」
『はい』
「人間の身体って、難しいな」
『多くの要素が関係していますからね』
「レベルが上がれば全部解決、ってわけじゃないんだな」
『そのとおりです』
レロスは鍋をかき混ぜた。
ふと振り返ると、リリィがこちらを見ていた。
「……どうした?」
「……ううん。料理、できるんだなって」
「最近覚えたんだ。味は保証しないぞ」
「……楽しみにしてる」
リリィは少しだけ微笑んだ。
◇
昼食を終え、リリィが落ち着いた頃。
二人は机を挟んで向かい合っていた。
「……おいしかった」
「本当か? よかった」
「……こんなにちゃんとした食事、久しぶり」
その言葉に、レロスは表情を曇らせた。
「……リリィ、よかったら少し話を聞いてもいいか?」
「……昨日のこと?」
「うん。でも、話したくないなら無理しなくていい」
リリィはしばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずいた。
「……私、冒険者なの」
「うん。剣を持ってたから、そうかなと思ってた」
「十五歳から冒険者を始めて、もう三年になる」
「じゃあ、今は十八歳?」
「……うん」
「俺は十七歳だ。一つ上なんだな」
リリィは少しだけ驚いたようだった。
「……レロスも冒険者?」
「一応な。でも、今はギルドで講習の手伝いとか、荷物運びをしてる」
「……どうして?」
レロスは苦笑した。
「俺、レベル1から上がらないんだ」
「……え?」
「呪いみたいなものでさ。何をやっても、ずっとレベル1のまま」
リリィは目を見開いた。
「そんなことって……」
「あるんだよ。だから、どこのパーティーに入っても役立たず扱いで、追い出されてばっかり」
レロスは肩をすくめた。
「十回以上かな。もう数えるのも嫌になったよ」
「…………」
「でも、冒険者になるのは諦めてないんだ」
リリィはレロスを見つめた。
「……どうして?」
「子供の頃からの夢だから。それだけじゃ、駄目かな?」
「……ううん」
リリィは首を振った。
「……私も、強くなりたかったから」
その声が、少しだけ低くなった。
「私がいたパーティーは、モヒートっていうの」
「モヒート……」
「私は前衛で、ずっと剣を振ってた。レベルは8。特別強いわけじゃないけど、戦うことはできた」
リリィは膝の上で手を握った。
「でも、だんだん休ませてもらえなくなって……。装備も古くなってたのに、新しいものは買ってもらえなかった」
「……報酬は?」
「ほとんど、パーティーの運営費だって」
レロスは眉をひそめた。
自分にも覚えのある話だった。
「……それで、昨日は?」
リリィは唇を噛んだ。
「……裏切られたの」
その手が、かすかに震える。
「いつもなら助けてくれるはずの人が、助けてくれなかった」
「…………」
「それで、もう役に立たないからって……」
リリィの声が途切れた。
レロスは黙って待った。
「……捨てられたの」
ぽつりと落ちた言葉。
リリィは顔を伏せた。
「……私、頑張ってたのに」
レロスは何も言えなかった。
彼女の境遇は、自分によく似ていた。
だが、自分よりずっとひどい。
負傷した仲間を見捨てるなんて、あっていいはずがない。
「……リリィ」
レロスは静かに言った。
「今は、無理して頑張らなくていいよ」
「……え?」
「ここでは、誰かの役に立たなきゃいけないなんて思わなくていい」
リリィの目から、涙がこぼれた。
「……でも、私……」
「まずは元気になること。それが今の仕事だ」
レロスは少し笑った。
「治療師にも言われただろ?」
リリィは涙を拭いながら、小さくうなずいた。
「……うん」
しばらくして、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……レロスって、変わってるね」
「よく言われるよ」
「……ふふっ」
また、小さな笑い声が聞こえた。
レロスは立ち上がり、食器を片づけ始めた。
リリィは寝台に戻り、毛布を膝にかける。
窓から差し込む午後の日差しが、部屋を柔らかく照らしていた。
「……ねえ、レロス」
「ん?」
「……本当に、ここにいていいの?」
レロスは振り返った。
「ああ。元気になるまで、ゆっくりしていけばいい」
「……ありがとう」
リリィは毛布を握りしめた。
そして、今度は涙をこぼさずに笑った。
こうして、レロスの小さな部屋に、新しい住人が増えた。
まだ、二人は互いのことをほとんど知らない。
それでも、同じように仲間から見捨てられた二人は、少しずつ言葉を交わし始めていた。
この出会いが、二人の運命を大きく変えることになるとは、まだ誰も知らなかった。




