第9話 傷ついた女剣士
安宿ヴォルガを出てから、もう一か月が過ぎた。
「……うん、悪くないな」
レロスは鍋の中を覗き込み、満足そうにうなずいた。
今日の朝食は野菜と干し肉のスープだ。
以前なら宿の食堂で食べていたが、今は自分で作っている。
現在暮らしているのは、ガレオンの街外れにある小さな借家の一室。寝台と机、それに簡単な調理場があるだけの部屋だが、レロスには十分だった。
毎日銅貨三枚を払っていた宿代も、月単位で部屋を借りることで大幅に減った。
『イニシャルコストは発生しましたが、ランニングコストを抑えられています』
「……またその言葉か」
『初期費用と継続費用のことです』
「分かってるって。もう何回も聞いたからな」
レロスは笑いながら、スープを口に運んだ。
講習の補助と単発の荷物運びを中心に仕事を続け、貯蓄も増えていた。
銀貨一枚を貯めたときは大喜びしたものだが、今ではそれ以上の金を持っている。
もちろん裕福になったわけではない。それでも、明日の食事を心配せずに済むようになったことは大きかった。
「さて、今日はギルドに寄ってから買い物だな」
『予定表では、午後に仕事は入っていません』
「ああ。だから、ちょっと市場を見て回ろうと思ってさ」
レロスは食器を片づけ、外出の準備を始めた。
◇
昼過ぎ。
ギルドで次の講習予定を確認したレロスは、市場へ向かって歩いていた。
大通りには商人や買い物客が行き交い、いつもどおりの賑わいを見せている。
「今日は野菜が安いな」
『購入する予定ですか』
「帰りに買おうかな。……あ、そうだ。あっちの通りに安い店があるんだよ」
レロスは大通りから脇道へ入った。
少し遠回りになるが、値段の安い店がある。最近はこうした小さな節約も楽しみの一つになっていた。
しかし、角を曲がったところで足を止めた。
「……ん?」
路地の奥。
スラムへ続く人通りの少ない場所に、誰かが座り込んでいた。
いや、座っているというより、壁にもたれかかっている。
薄汚れたマント。傷んだ革のブーツ。腰には剣が下がっていた。
冒険者だろうか。
「……大丈夫か?」
声をかけても返事がない。
レロスは少し近づいた。
青い髪を片側で束ねた若い女性だった。年齢は自分と同じくらいか、少し上だろう。
顔色が悪い。
頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。衣服のあちこちが破れ、腕には乾いた血が付着していた。
「お、おい!」
女性がゆっくり顔を上げた。
青い瞳がレロスを捉える。
「……来ないで」
かすれた声だった。
「いや、でも、怪我してるだろ」
「……平気」
そう言いながら、女性は立ち上がろうとした。
しかし、足に力が入らなかったのか、そのまま崩れ落ちる。
「危ない!」
レロスは慌てて駆け寄り、倒れる寸前の身体を支えた。
驚くほど軽かった。身体に力が入っていない。
「エーアイ! どうすればいい!?」
『まず、意識と呼吸の状態を確認してください』
「意識はある! 息もしてるけど、苦しそうだ!」
『出血している箇所はありますか』
レロスは女性の身体を確認した。
腕の傷。膝の擦り傷。マントの下にも血の染みが見える。
「腕に傷がある。あと、脇腹の辺りも……」
『出血が続いている箇所は、清潔な布で圧迫してください。ただし、深い傷や異物がある場合は無理に触れないでください』
「分かった!」
レロスは荷物から清潔な布を取り出した。運搬の仕事で使うため、いつも持ち歩いているものだ。
「悪い、ちょっと傷を見るぞ」
「……やめて」
「でも、このままだと危ないって!」
女性は弱々しく首を振った。
「……もう、いいの」
その言葉に、レロスは一瞬動きを止めた。
もういい。
何が、もういいのだろう。
「……よくないだろ」
レロスは静かに言った。
「何があったか知らないけど、こんなところで倒れてていいわけないだろ」
女性は答えなかった。
ただ、青い瞳から涙が一筋こぼれた。
「……置いて、いかれた」
「え?」
「……みんなに」
レロスの胸が、嫌な音を立てた気がした。
置いていかれた。
その言葉には、覚えがあった。
何度も、何度も。
自分も同じような目に遭ってきた。
「……パーティーに?」
女性は小さくうなずいた。
「……私が、邪魔だからって」
レロスは唇を噛んだ。
事情は分からない。この女性が何をしたのかも知らない。
だが、負傷した仲間をこんな場所に置き去りにする理由があるのだろうか。
「……エーアイ」
『はい』
「治療院まで運びたい。どうすればいい?」
『まず出血を抑え、できるだけ身体を動かさずに搬送する必要があります。周囲に協力を求めてください』
「分かった」
レロスは女性の腕の傷に布を当てた。
女性は小さく顔をしかめたが、抵抗する力は残っていないようだった。
「ちょっと待ってろ。人を呼んでくる」
立ち上がろうとすると、女性がレロスの袖をつかんだ。
「……行かないで」
消え入りそうな声だった。
レロスは振り返った。
女性の手が震えている。
その表情には、怪我の痛みとは違う恐怖が浮かんでいた。
また置いていかれる。
そう思っているのかもしれない。
「……大丈夫だ」
レロスは女性の手を握り返した。
「俺は戻ってくる。絶対に」
女性はしばらくレロスを見つめていた。
やがて、ゆっくりと手を離した。
◇
レロスは大通りまで走り、近くの荷運び業者に助けを求めた。
事情を説明すると、荷車を一台貸してくれることになった。
もちろん無料ではないが、今は金を惜しんでいる場合ではなかった。
業者の男とともに路地へ戻り、女性を慎重に荷車へ乗せる。
その間も、エーアイに状況を伝え続けた。
『意識や呼吸に変化があれば、すぐに確認してください』
「ああ、分かった」
女性はほとんど目を閉じていた。
レロスは何度も声をかけた。
「もう少しだ。治療院に着くからな」
「…………」
「聞こえてるか?」
「……うん」
かすかな返事があった。
治療院へ到着すると、レロスは受付に駆け込んだ。
「すみません! 怪我人です!」
職員が駆けつけ、女性を診察室へ運んでいく。
しばらくして、治療師が姿を現した。
「あなたが運んできた方ですか?」
「はい! あの、彼女は大丈夫なんでしょうか?」
「かなり衰弱していますね。出血もあります。このままでは危険ですが、回復魔法を使えば助けられます」
「本当ですか!」
「ただし、治療費は銀貨二枚になります」
「……銀貨二枚」
レロスは息をのんだ。
ようやく貯めた金だった。
宿を出て、部屋を借りて、自炊を始めて。少しずつ仕事を増やして、ようやく生活に余裕ができた。
その貯蓄の大半が、一度に消える。
『マスター。支払った場合、今後の生活費を再計算する必要があります』
「……分かってる」
レロスは革袋に手を当てた。
「……エーアイ」
『はい』
「この金、俺が頑張って貯めたんだよな」
『はい』
「だから、どう使うかも俺が決めていいんだよな」
『もちろんです』
レロスは顔を上げた。
あの女性が言った言葉を思い出す。
置いていかれた。邪魔だから。
かつて、自分も何度も聞いた言葉だった。
「……だったら、決まりだ」
レロスは治療師に向き直った。
「お願いします。彼女を治療してください」
「分かりました。すぐに取りかかります」
治療師が診察室へ戻っていく。
レロスは椅子に腰を下ろした。
不安がないわけではない。
だが、あのまま見捨てるという選択だけは、どうしてもできなかった。
やがて、治療師が戻ってきた。
「治療は無事に終わりました。命に別状はありません」
「……よかった」
レロスは大きく息を吐いた。
「ただ、疲労と栄養不足がひどいですね。しばらく安静にする必要があります」
「分かりました。ありがとうございます」
レロスは受付で銀貨二枚を支払った。
革袋が、急に軽くなった。
それでも、後悔はなかった。
「彼女は、いつ頃目を覚ましますか?」
「今夜か、明日には意識がはっきりするでしょう。しばらくはこちらでお預かりします」
「……そうですか」
「ご家族の方ですか?」
「いえ。道で倒れているのを見つけただけです」
治療師は少し驚いた顔をした。
「それなのに、治療費を?」
「……放っておけなかったんです」
レロスは照れくさそうに頭をかいた。
治療師は小さくうなずいた。
「落ち着いたら、また顔を見せてあげてください」
「はい。明日、また来ます」
レロスは深く頭を下げた。
◇
治療院を出ると、空はすでに夕焼けに染まっていた。
朝は、いつもと変わらない一日になるはずだった。
ギルドに寄って、市場で買い物をして、夕食を作る。
そんな平凡な一日。
それが、思いがけない出会いによって大きく変わった。
「……名前くらい、聞いておけばよかったな」
『意識が回復した後に確認できます』
「そうだな」
レロスは空を見上げた。
今日、貯蓄の大半を失った。
明日からは、また節約生活だ。
それでも、助けたことを後悔する気持ちはなかった。
「……明日、また来よう」
『承知しました』
レロスは歩き出した。
その頃、治療院の一室では。
青い髪の少女が、静かに目を開けていた。
「……あの人……」
かすれた声が漏れる。
誰もいない天井を見つめながら、彼女は小さくつぶやいた。
「……本当に、戻ってきてくれたんだ……」
その瞳から、一筋の涙がこぼれた。




