第9話 巨獣の目覚め、あるいは最初の楽団。
テレビの電波と朝夕の新聞という名の怪物は、俺たち地方都市の小学生を、一瞬にして逃げ場のない檻の中へと閉じ込めた。
五年生の学芸会での、美香のタクトと俺の木琴によるあの苛烈なセッションは、メディアによって「世紀の天才少年少女による、魂の共鳴」という、おめでたくも強固なストーリーへと書き換えられていた。
お袋が流した「将来を約束した親同士の顔見せ」というデマは、いまや日本中の大人たちの共通認識としてコンクリートのように固まり、誰もそれを疑わなくなっていた。
そして、その巨大すぎる虚像は、ついに引き返せない一線を越えた。
「――だったら、本当にやらせてみればいいじゃないか」
美香の父親である世界的な指揮者のその一言と、テレビ局のプロデューサーたちの邪悪な興奮によって、俺たちに突きつけられた条件は、正気の沙汰ではなかった。
来年の小学校卒業の春、地方文化ホールのこけら落とし公演として、俺と美香が主役のステージを用意する。
条件はただ一つ。『演奏するオーケストラは、君たちの手で、ゼロから集めて作り上げること』
胃が痛くなった。
中身が四十代の俺の理性は、その要求のグロテスクさに目眩を覚えた。
目立ちたくなかった。
バタフライ・エフェクトを恐れ、大金は稼がず、面倒な学校行事や運動会の応援の組の目からもスマートにすり抜け、ただあの魂を救ってくれた木琴の音の中にひっそりと引きこもって生きるはずだったのだ。
それなのに、気づけば俺は、街じゅうの大人たちに神輿に担がれ、歴史の改変という名の濁流のど真ん中に立たされていた。
(……無理だろ。オーケストラをゼロから作るなんて、小学生にできるわけがない)
俺が冷や汗を流しながら絶望している横で、しかし、美香の瞳には、かつてないほど深く、暗い「狂気の炎」がメラメラと燃え上がっていた。
美香からすれば、これは天から与えられた、俺を完全に閉じ込めるための最高にして最後の檻だったのだ。
千晃お姉さんの自宅マンションで、自分の知らない高い次元で俺が音を重ね、頭を撫でられていたあの放課後。
あの時、美香の心の中で何かが完全に壊れ、精度を上げて新生した。
他の誰にも、あの真剣で、楽しげな目を向けさせるわけにはいかない。
あいつが他の誰とも音を合わせられないように、あいつの周りを、すべて私の用意した音(楽団)で埋め尽くしてあげる。
私がその真ん中でタクトを振り、あいつの音を一生、支配して飼い慣らしてあげる。
「聡!」
レッスン室の真ん中で、美香が父親のタクトをぎゅっと握り締め、ツンと胸を張って俺を呼び捨てにした。
その姿は、お嬢様なんて生易しいものではない。
自分の帝国を築こうとする、若き独裁者のそれだった。
「……いい? メンバーは、このマンモス校の六年全員、三百人の中から私が全員集めるから。リコーダーが上手い奴、ピアノが弾ける奴、ブラスバンドにいる奴……全部私が引きずり出して、私のオーケストラを作ってあげる」
美香の言葉はそこで終わらなかった。
「楽器が弾けない奴らだって逃がさないわ。全員に役割を与えるの。ダンスでステージを彩る奴、照明や音響で空間を支配する奴……三百人の同期すべてを私の手足にして、完璧な舞台を作ってあげる。あなたはただ、私のタクトだけを見て、そこで死ぬ気で木琴を叩いていればいいのよ」
「……美香」
言葉が出なかった。
浮気は許さないという乙女の執念が、メディアという怪物を味方につけて、学年丸ごと三百人のガキどもを巻き込む一大国家プロジェクトへと暴走を始めていた。
周りの大人たちは「まぁ、なんて微笑ましい、二人で作る愛の楽団ね!」とハンカチを涙で濡らし、お袋は近所で「ウチの聡と美香ちゃんが、二人だけのオーケストラを作るのよ!」と鼻高々にデマの上塗りをしている。
学校へ行けば、三百人の同級生たちが「俺たちもあの二人の楽団に入るのか……?」「ダンスか、それとも裏方か……?」とソワソワして俺たちを遠巻きに見つめている。
俺だけが、その完璧に逃げ場を失った世界の中心で、ガタガタと震えていた。
違うんだ。
俺はただ、あの埃っぽい音楽室で、静かに趣味の世界の一番になりたかっただけなんだ――!
だが、一度覚醒した美香のタクトと、八百人の思い込みは、世界を巻き込んで止まらない。
小学校最後の最高学年、六年。
俺たちの、命を削り合うような「最初のオーケストラ」の団員集めという名の、奇烈な放課後が幕を開けた。




