第8話 メディアの怪物と、魂の闘争(コンチェルト)
一学年十クラス、三百人のマンモス校で行われる秋の学芸会。
だが、今年の体育館は例年とは明らかに空気が違っていた。
ひな壇の前に、地方テレビ局の無骨な巨大カメラと、いくつかの大きな録音マイクが並んでいる。
一九八〇年代前半。
一家に朝夕の新聞が届かない家はなく、夜になれば誰もが同じテレビ番組を穴が開くほど見つめていた時代。
メディアが持つ社会的影響力は、現代とは比較にならないほど強大で、かつ絶対的なものだった。
「あの世界的指揮者の娘が、学校の学芸会でタクトを振る」
「その隣には、去年の大合奏を一台でねじ伏せた、正体不明の木琴の神童がいる」
新聞の地方版に載った小さな記事が火種となり、このマンモス校の学芸会は、一瞬にして地方メディアの怪物たちを引きずり出す一大イベントへと変貌していた。
お袋が流した「将来を約束した親同士の顔見せ」というデマは、今や八百人の包囲網を軽々と超え、テレビの電波に乗って街全体の既成事実へと膨れ上がろうとしていた。
だが、スポットライトを浴びてステージの端に立つ俺――聡も、真ん中に立つ美香も、そんな外側の狂騒には一瞥もくれなかった。
美香がゆっくりと、お父さんから譲り受けた本物のタクトを掲げる。
千人を超える観客、そこでテレビカメラのレンズが、ひな壇の真ん中に立つ彼女に集中した。
二年前、強気でツンとしていた少女は、今やその背中だけで空間を支配する、本物の指揮者の風格を纏っていた。
美香のタクトが一閃し、百人の合奏が始まった。
そして、あの瞬間がやってくる。
音がピタッと、完璧な静寂となって止まった。
静まり返る体育館。
カメラのファインダー越しに、誰もが息を呑むのが分かった。
俺はマレットを振り下ろした。
ポーン、ポポコポポコン――。
千晃お姉さんとの至福の特訓を経て、二年かけて調教しきった十代の肉体から放たれる、圧倒的な木の粒立ち。
だが、昨年までと決定的に違うのは、俺の正面に、美香のタクトがあることだった。
千晃さんに突きつけられた「その音は誰のための音?」という問いの答えが、今、完全に成熟した響きとなって体育館を震わせていた。
俺の音は、俺をずっと見つめ続けてくれた、目の前のこの小さな指揮者に届くためだけに放たれている。
しかし、美香の指揮は、決して俺を優しく包み込みはしなかった。
彼女の振るうタクトは、俺の音の底にある四十代の理性も、孤独も、すべてをさらに高い場所へと力づくで引きずり上げようと、猛烈な気迫で迫ってくる。
(もっとだ……もっとよ。私のタクトに、あなたのすべてを寄越しなさい!)
言葉ではない。
音とタクトを介した、魂と魂の激しいぶつかり合い。
俺たちは、お互いの実力を誰よりも認め合い、誰よりも求め合っている。
それと同時に、お互いに「絶対に負けたくない」という、表現者としての、そして一人の人間としての狂気的なプライドが、火花を散らして衝突していた。
ただの甘いラブコメでも、仲睦まじい二重奏でもない。
それは、ステージの上で繰り広げられる、美しくも苛烈な「闘争」だった。
その場にいる観客全員が、そしてカメラの向こうの大人たちが、皮膚をヒリつかせるような二人の圧倒的な熱量に、ただ圧倒され、言葉を失って金縛りになっていた。
子どもたちの学芸会を観に来たつもり状が、いつの間にか、命を削り合う本物の天才たちの戦いを目撃させられているのだ。
最後の一打が体育館の空気を引き裂き、美香のタクトがピタッと止まる。
一瞬の静寂。
テレビカメラが回っていることすら誰もが忘れていた。
次の瞬間、去年を遥かに凌駕する、怒涛のような大拍手と歓声が、体育館の天井を突き破らんばかりに湧き起こった。
鳴り響く歓声の中、俺は息を切らせながら、正面の美香を見つめた。
美香もまた、汗をにじませながら、タクトを握りしめて俺を真っ直ぐに見つめ返していた。
その瞳には、かつてないほどの楽しげな光と、そして「これで、あなたはもう一生私から逃げられない」という、深い、深い確信の光が宿っていた。
俺は、割れんばかりの拍手の中で冷や汗が流れるのを止められなかった。
テレビの電波に、五百人の大人に、そしてこの少女の圧倒的なタクトに。
俺という存在の退路は、今度こそ完全に、世界規模でコンクリート漬けにされたのだ。




