第7話 小さな指揮者、狂気のタクト
小さな指揮者――美香は千晃さんの部屋を飛び出すと、そこに居合わせた自分の父親――世界的な指揮者であるその男の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「パパ! 私に指揮を教えて!!」
「お、おい、急にどうしたんだ。お前、昔『パパが指揮者だからって私が音楽やると思わないでよ』って言っていた形じゃないか」
うろたえる父親に、美香は涙目のまま、凄まじい大声で言い返した。
「そんなの昔の話! パパ、いつだったか言ってたじゃない!『指揮者の娘なら、きっと指揮者の才能がある』って! だから私に指揮を教えなさい! 義務よ!!」
かつての自分のセリフを人質に取られ、「ぐぬぬ……」と言葉に詰まる世界的な指揮者。
あの子の目的はただ一つだった。
演奏者として千晃お姉さんのようなプロの隣に立てないのなら、もっと高い場所――『指揮者』としてステージの真ん中に立ち、俺の鳴らす木琴の音を、そのタクトで完全に支配してやるということだ。
浮気なんて、絶対に許さない。
自分以外の誰かに、あの目を向けさせるわけにはいかないのだ。
数日後。
世界的な指揮者であるパパをして「あいつは狂っている、寝る間も惜しんで俺の映像を穴が開くほど見つめ、タクトを振り続けていた」と言わしめるほどの、執念の特訓を経て、美香が戻ってきた。
千晃さんの部屋に、お父さんのタクトをぎゅっと握りしめ、ツンと胸を張った美香が戻ってきた。
「……いい? 次の曲は、私の指揮に合わせてもらうからね」
相変わらず強気な口調。
俺はマレットを構え、千晃さんもそれぞれの位置についた。
美香が緊張に小さな肩を震わせながら、ゆっくりとタクトを振り上げる。
空間の空気を支配する本物の「意志」が宿り始めた。
だが、彼女の執念はそこでは留まらなかった。
美香の瞳の奥の熱が、さらに一段、深い狂気の色へと染まっていく。
(もっとだ……もっとよ。その目を私に、今以上に私が引っ張り出してあげる……!)
彼女のタクトが、容赦のない加速と重さを持って空間を切り裂き始める。
それはもはや、演奏者を気持ちよく乗せるための指揮ではなかった。
俺の首の底にある、40代の精神がひた隠しにしてきたドロッとした孤独、焦燥、すべての感情を、力づくで引きずり出そうとする頑強なまでの触手だった。
あまりの気迫に、真横で並んで叩いていた千晃さんが、不意に演奏の手を止めた。
プロの木琴奏者である彼女がマレットを下げ、ただ呆然と、俺と美香の二人の姿を見つめる傍観者へと引きずり下ろされる。
千晃さんは、気づいてしまったのだ。
この二人がいま、表面的な音楽の美しさなど完全に脱ぎ捨てて、お互いの魂の底を殴り合っているということに。
俺をさらに高いステージへ引き上げようと音で叫ぶ、俺のマレット。
(私をもっと見なさい、表面だけじゃないあなたの心の底をすべて見せなさい、出来ないなら私が無理やり引き上げてやる)とタクトで応じる、美香の執念。
その瞬間の美香の表情と、空間を完全に掌握した指揮は、世界を回ってきたプロの演奏家である千晃さんから見ても、背筋が凍るほどにすさまじいものだった。
小学生の女の子が、一人の少年の音を、命ごと支配しようとしている。
俺は、彼女のタクトが刻む圧倒的な、そして狂気的なグルーヴに引きずられながら、全身の血が沸騰するような歓喜の中でマレットを叩きつけていた。
(なんだこの美香の指揮は……。俺の音を完全にコントロールしにきてる。なんて心地よくて、なんて恐ろしいタクトを振りやがるんだ……!)
美香の指揮は、ただ一定のテンポを刻むだけのメトロノームじゃない。
次にどの楽器が、どれほどの強さで、どんな感情で音を出すべきかを、コンマ数秒先を予感させる『空間の設計図』として完璧に提示しているのだ。
演奏者の呼吸を盗み、その肉体が一番欲しがっているタイミングで、次の音の入り口を鮮烈に差し出してくる。
前世の四十代の人生で、俺はこれほどまでに演奏者を支配し、同時に歓喜させるタクトを見たことがない。
世界を回るパパの背中を見て、あの子は本物の怪物の技術を、その小さな身体に完全にコピーしていたのだ。
千晃さんの問いかけた「その音は、誰のための音?」という疑問の答えが、今、目の前ではっきりと鳴り響いていた。
俺の音は、俺をずっと見つめ続け、俺のすべてを支配しようとする、この小さな指揮者のためにこそあったのだ。
主人公が音楽に狂えば狂うほど、ヒロインの指揮の重さとアプローチも、本物の天才としての進化を遂げていく。
小さな指揮者が描く激しい放物線に合わせて、俺の木琴が、今までで一番優しく、そして狂おしいほどの熱い音色を響かせ始めた。




