第6話 誰のための音。
「素晴らしいわ。あなた、本当に小学生? 私の音に怯えずに、ちゃんとついてこようとしてる」
千晃さんは嬉しそうに目を細め、呆然と立ち尽くす俺の頭を優しく撫でた。
「ありがとうございます……っ」
息も絶え絶えに応える俺。
たったの一音と二音目で、二年間積み上げてきた特訓も、四十代の精神によるプライドも、学校の音楽室で得た思い出補正の記憶すらも、一瞬で消し飛ばされた。
完全に、その開かれた「本物の音楽の世界」に魂を奪われていた。
だが、千晃さんは俺の頭に置いた手をそっと離すと、ふっと真面目な、どこか哀愁を帯びたプロの演奏家の目になって俺を見つめた。
「でもね、聡くん。……その音は、誰のための音?」
「え……?」
思わぬ問いかけに、言葉が詰まる。
「あなたの技術は確かに小学生のそれじゃない。でもね、あなたの音は、どこまで行ってもあなた自身を満足させるためだけに閉じこもっているわ。……あなたは、自分が気持ちよくなりたいから、それだけ……?」
自分の脳の命令通りに、この不自由な肉体を動かして快感を得たい、それだけなのかしら。
見透かされたような言葉に、頭を殴られたような激しい衝撃が走った。
「私はね、一音目と二音目を出しながら、音の中であなたにずっと問いかけていたのよ?『あなたの音は、どこへ向かって走っているの?』って。……気づかなかったかな?」
千晃さんの静かな声が、防音室の贅沢な空気に溶けていく。気づかなかった。
俺は、彼女の放った音の音量と超絶技巧にばかり目を奪われ、その音の裏にあるメッセージにすら気づいていなかったのだ。
四十代の経験値を持ってしても、プロの演奏家が音に乗せる本質的な精神性には、これっぽっちも追いついていなかった。
独善的な満足感に酔いしれていた自分が、急激に恥ずかしくなっていく。
俺はバチを握ったまま、床を見つめて立ち尽くした。
俺の音は、一体誰のための音なんだ。
その時、部屋の隅から、小さく、けれど固い足音が聞こえた。
「……あの顔」
静まり返った部屋に、美香の声が落ちた。
俺が千晃さんの一音に打ちのめされ、自分の音楽の底の浅さに絶望して立ち尽くしている、その歪んだ表情。
美香はその顔を、以前どこかで見たことがあった。記憶の糸が、一瞬で二日間の放課後の廊下へと繋がる。
(……あの顔。あいつが、放課後の音楽室で、初めて木琴を叩いた時の……あの表情だ)
美香はリコーダーを胸に抱きしめたまま、潤んだ瞳で俺をじっと睨みつけていた。
千晃さんからの厳しい問いかけに、魂を削るような、どこまでも純粋で、ぞっとするほど真剣な目をしている俺。
そして、世界で一番楽しい遊びを見つけた子供のような、無邪気で楽しげな熱を帯びている俺。俺は、千晃さんの一音に魂を奪われたとばかり思っていた。
自分の欲望だけのような音楽を全否定されて、絶望しているのだと。
だけど、本当は違ったのだ。俺は、千晃さんの『問いかけ』によって、あの最初の日の一日のように、もう一度理屈抜きで心震わせ、音楽の深淵に手を伸ばそうとしていた。
そして、当の本人すら気づいていないその「魂の原点の表情」を、二年間、教室の斜め後ろの席から、夕方の音楽室のドアの隙間から、ずっと誰よりも近くで見つめ続けていた美香だけが、一番正確に見抜いてしまっていた。
(なによ……そんな顔、私の前では一度も、見せてくれたことないのに……っ)
悔しくて、切なくて、胸が苦しい。お姉さんの一音に一瞬で心を通わせ、自分の知らない高い次元で音楽の対話を始めている俺の姿が、美香の心を激しく締め付ける。
美香には、二人が何を話しているのか、音楽の専門的な意味は分からない。
だけど、分かる。あの美しい目を奪ったのは、自分ではなく、あのお姉さんの音なのだ。
(だったら……だったら、私がその音を、引っ張り出してやる……っ!)
悔しさと、猛烈な焦燥感で、美香の小さな手が震えていた。
千晃さんの「誰のための音?」という問いの答えは、すぐ後ろにいた。
彼女の放つ圧倒的な気迫と、静かに火がついた覚醒の予感。
それは、その場にいる誰もが目を奪われるほどの、痛烈な輝きを放ち始める。
美香はリコーダーを床に投げ出すと、部屋の隅を飛び出し、自分の父親の動く手を掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「パパ! 私に音楽を教えて!」




