第5話 一音の咆哮、二音目の戦慄
約束の週末、洋館の防音室に現れたのは、見惚れるほどに凛とした大人の雰囲気を纏った女性だった。
「呼んだ? ――あら、あなたが噂の男の子?」
千晃と父親に呼ばれたその女性は、長旅の疲れも見せず、親しみやすい笑みを浮かべて俺の前に立った。
「挨拶もそこそこに、まずは演奏してみて」
先生の言葉に促され、俺はいつも通り五オクターブのマリンバの前に立つ。
美香はリコーダーを胸に抱えたまま、部屋の隅の椅子からじっと俺の背中を見つめていた。
俺のマレットが動き出す。
この二年間、言うことを聞かない十代の肉体を力づくで調教し、叩き込んできた基礎の旋律。やっぱり、叩いているだけで楽しかった。
頭の中に鳴り響く音を自分の腕でコントロールできている万能感。ずっとこの音の中に浸っていたい。
どこか、二年間努力し続けてきた自分自身の音に、酔いしれている部分があった。
――その独善的な心地よさは、不意に、真横から割り込んできた音によって一瞬で粉砕される。
ポコン。その表現を、一体何と言えばいいのだろう。
それは、並べられたもう一台の木琴の前に立った千晃さんが、ただ、マレットを一振りしただけの音だった。
俺が叩き出す音と、完全に同じタイミング。狂いなく重なった、たったの一音。
なのに、その一音が出た瞬間、俺の魂は激しく揺さぶられ、脳髄の奥が痺れるほどの衝撃で息が止まる。
どうしてだ。なぜ、同じタイミングで、同じ木の鍵盤を叩いただけで、こんな音がする。
俺の音は、ただの「正しくコントロールされた音」に過ぎなかった。
だが、彼女の放った一音には、目に見えない無数の響きの大粒が、空間の空気を爆発させるほどの質量を持って宿っている。
二年間の特訓も、四十代の精神によるプライドも、学校の音楽室で得た思い出補正の記憶すらも、そのたった一音の暴力の前に、一瞬で消し飛ばされた。
呆然とする俺の五感を置き去りにしたまま、彼女の、二音目が振り下ろされる。
ボーン――。
一音目でひび割れた俺の心に、二音目の戦慄が容赦なく突き刺さる。
音が、生き物のように跳ね、うねり、部屋全体の空気を完全に支配していった。
贅沢な音を拒絶していたはずの俺の身体が、そのプロの木琴が放つ圧倒的な響きの奔流に、抗うこともできずに呑み込まれていく。
これが、世界を回ってきた本物の、ホンジャラス・ローズウッドの咆哮なのか。
演奏を終えたとき、俺はマレットを握り締めたまま、激しく上下する胸を押さえて千晃さんを見つめていた。
顔が真っ白だった。胸の奥のこの激しい高鳴りは、決して、彼女がもの凄く綺麗なお姉さんだったからではない……はずだ。断じて、本物の音楽に魂をねじ伏せられた恐怖と歓喜のせいだった。
「素晴らしいわ。あなた、本当に小学生? 私の音に怯えずに、ちゃんとついてこようとしてる」
千晃さんは嬉しそうに目を細め、呆然と立ち尽くす俺の頬を優しく撫でた。
「ありがとうございます……っ」
息も絶え絶えに応える俺。
完全に、その一音と二音目で開かれた「本物の音楽の世界」に魂を奪われていた。
だが、その光景を、部屋の隅でリコーダーをぎゅっと握りしめたまま見つめていた美香の顔は、完全に青ざめていく。
この二年間、誰よりも近くで俺の音を聴き、リコーダーで寄り添ってきた彼女だ。だからこそ分かってしまった。
自分がどんな楽器を扱っても届かなかった俺の領域に、あの千晃お姉さんは、たったの一音で、何の手間もなく土足で踏み込んでみせた。
そして、自分の前ではいつも冷静で冷めている俺が、あのお姉さんの一音を浴びた瞬間、見たこともないほど激しく魂を揺さぶられ、今や心奪われたような目で彼女を見つめている。
(なに、よ……なによ、あの人……っ!)
悔しさと、切なさと、圧倒的な焦燥。
二年間かけて二人で積み上げてきたはずの完成された放課後が、目の前の大人の女性によって、跡形もなく塗り替えられていく。
リコーダーを握りしめる美香の小さな手が、見たこともないほど激しく震えていた。




